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泰生があまりに無神経な事を言うので、応じる杏菜の声も刺々しくなった。泰生は昔の杏菜を探しているのかもしれないが、ここにいるのは現在の杏菜。持っているものも失ったものも、全てが別人なのだ。
杏菜は窓の開閉ボタンを押した。かすかな機械音とともにせり上がってきたガラスの板が、二人の間に透明で無機質な壁を作っていく。
これが現実だ。例え姿が見えたとしても、二人は同じ世界にいない。杏菜と泰生の間には10年前からずっと高い壁があって、お互いの世界は交わる事が無い。
「軽々しくは言ってない」
しかし泰生も負けてはいなかった。これを逃せば、もう会えなくなるという崖っぷち感が、彼に閉まりかけの窓の隙間へと手を挟ませた。
「これでも結構、なけなしの勇気を振り絞って言ってる」
強い意志を込めて、窓をこじ開け、車の中にいる杏菜を真っ直ぐに見つめてくる、その真剣な眼差し。
……あぁ、あの時と同じだ。
不意に脳裏をよぎったのは10年前、専門学校の前まで杏菜を探してやってきた詰襟の少年の姿だった。
『だって、ここに来なかったら、通りすがりの知らない人のままで終わってしまうから。それだけは嫌で』
杏菜に向けられたのは純粋で真っ直ぐな目。彼の双眸に宿る輝きは、今と全く同じで………。
杏菜は唐突に、大声で泣きだしたい衝動にかられた。
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