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「忙しいんじゃないの? 出勤前なんでしょ」  振り返った杏菜が先ほどより更に低いトーンで答えるのとほぼ同時に、市役所の職員が窓口から顔を出した。 「中嶌さん、登録済みましたよ」 「あ……」  泰生が思わずそちらへ顔を向けた隙に、杏菜は素早く身を翻しその場を離れた。  10年前の杏菜は無我夢中で、前だけを向いて生きていたと思う。  お金は無かったし、住む場所だって姉の家に転がり込んだ格好だったから、姉の彼氏が泊まりに来るたびに、友達の家へ泊めてもらわなきゃいけなかったし、専門学校とアルバイトに追われて、自分自身の彼氏を作る暇すら無かったし。  ないない尽くしの19歳だったけれど、それでも夢と希望にだけは満ち溢れていた。学費を稼ぎながら美容専門学校へ通い、美容師になって生きていく。頑張ったら何でもできるんだと信じて疑わなかった。  若かったなぁ、と今になってはしみじみ思う。世の中には自分の力ではどうにもならないことがあるというのを、何も知らなかった。迷惑をかけた覚えは無くても、いつのまにか深い憎しみを身に受けることだってある。思い通りの未来を歩めるかは、自分の努力だけでは決まらないのだ。  しかし泰生の方は、無事に望んでいた通りの進路へと進めたようだ。     
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