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 そこで市はシングルマザーに目をつけたのだ。彼女らは確実に子連れで来てくれるし、経済的に困っているケースが多いから、優遇措置を用意すると移住を積極的に考えてくれる。実際のところ杏菜も、1年間の家賃補助と、軽自動車の無償貸与、更には正社員での就職を斡旋するという好条件を偶然電車の吊り広告で見かけ、1も2もなく飛びついたくちだ。  もちろん、実際に暮らし始めてみると、手取りが思ったよりも少ないとか、近所にコンビニが無いとか、見たことも無い巨大な蛾が家の壁一面に貼り付いていて卒倒しかけたとか(これは東京へ帰ろうかと真剣に考えてしまった)、不満は言い出したらきりがないが、それでも市の経営する老人介護施設でのケアワーカーとしての仕事も軌道に乗ってきたところで、4歳になる娘と穏やかな日々を送ることができている。  だから10年ぶりに再会してしまった泰生になんて煩わされたくない―――それは間違いなく杏菜の本音だ。  もう、そっとしておいてくれればいい。希望通り医者の道に進んだ泰生と杏菜とでは、生きる世界が違い過ぎるのだ。関わり合いにならないのがお互いのためだろう。  しかし、そんな願いも虚しく、市役所での偶然の再会から約3ヶ月後、泰生は再度、杏菜の目の前に現れた。 「中嶌泰生といいます。28歳、医者です。濱浦市民病院に勤めていまして。えっと、あの、こういう場は初めてで……今日はよろしくお願いします」  それは朝夕の涼しさを実感するようになった10月も末の、よく晴れた気持ちのいい日曜日のことだった。     
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