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と呆れたFさんが、自分用の車と運転手を貸してやろう、と言った丁度その時、広島市街の方角から見たこともないような形の雲が立ち上った。Fさんも僕も、そばにいた運転手のSさんも、呆気にとられて巨大な雲を見つめた。その雲は青空を上へ上へと上り、化物のような笠をもった巨大なきのこの形となった。広島に、婚約者の身に尋常ではないことが起きている。駆け出そうとした僕の身体は強い力で止められた。振り向くとFさんが難しい顔で立っていた。
「いかせてください。今日は非番なんです」
何も言わずFさんは口を真一文字に引き結んで広島の方角を睨みつけていた。
「少し待て」
「嫌です、今、今行きたいんです」
「落ち着け、広瀬」
「行かせてください」
僕は叫んだ。Fさんは叱るでもなく怒鳴るでもなく静かに
「行かせないとは言っていない。少し待て。おい、こいつを見張っていろ」
と言って踵を返した。
「はっ」
と去っていく背中に返事をしたSさんは僕を気の毒そうに見つめた。
永遠のように思えるほどの時間が過ぎた頃、兵舎の中からFさんが姿を表した。背筋を伸ばしたいつもどおりの美しい歩様で戻ってきたFさんの表情はしかし強張っていた。
「広瀬。落ち着いて聞け。広島が消滅した」
ヒロシマショウメツ。頭の中にその言葉と初子の笑顔が渦巻いた。駆け出そうとした僕はもんどり打って地面に倒れた。Fさんに足払いをかけられたのだった。
「俺たちの死に場所は海の上だ。命を無駄にするな。お国のために死ね」
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