綺羅星の最期

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「あなたが、私の一番愛深い方? はて、思い出せぬ こんなに可愛らしい殿に お仕えしたことが有ったかしら」 綺羅星の声はさらに若返り、 澄んだ鈴の音のように響いた。 手を伸ばして 男の子の艶やかなかむろ髪に触れようとすると するするとその子はまた小さくなって とうとう赤ん坊になってしまった。 丸い目をきょとんと開けて 可愛い手を中空に伸ばし 米粒一つ入るかどうか程の唇は 乳が欲しいのか小さく閉じたり開いたりした。 「ああ!おまえは、わたしの明星!」 綺羅星は、その赤ん坊を抱き上げた。 渇ききって もう二度と潤わないと思っていた綺羅星の両目から 暖かい涙が溢れる。 明星とは、綺羅星の生んだ子供の名だった。 生んで一か月ほどで手放した赤ん坊に 綺羅星は密かに 「明星(あけぼし)」と めでたい名前を付けていた。 赤ん坊を胸に抱き、乳を含ませると 透明の産毛が生えた額と鼻の下に 可愛い玉の汗をかいて懸命に吸う。 「男の子を、 遊女が連れ回し育てたら良くない その子のためにも」 そう、「口きき屋」に口説かれて 子を亡くしたお屋敷にやってしまった。 大切に可愛がられてはいたが 数年後訪ねて行くと 五歳になる少し前に 流行病にかかって死んでしまった、ときいた。 そんなに早く死ぬのなら 苦労させようとも自分のそばに置いておきたかった、と 随分後悔して苦しんだが いつの間にか、胸の奥にしまいこんでいた記憶。 「明星や、良く迎えに来てくれたね そうさ、お前こそ、私の愛 私が一番愛した者さ」 赤ん坊を抱き上げた綺羅星の腕は すべすべした娘の腕に戻っている。 ふっくらした胸に日向の鳩のような 懐かしい匂いが立ち上った。 ゆるく握った小さな手は 今、しっかり綺羅星の着物を掴んでいる。 丸い目はまだ何も見えないのか宙を漂っている。 赤ん坊は「ぽう」と言って笑った。 それにつられて綺羅星も笑う。 「さあ、案内しておくれ」 今生を生ききって 泉のような喜びに満たされた綺羅星は 赤ん坊をしっかり胸に抱き 美しい光に向かって歩きだした。 さて 翌朝、集落の者が様子を見に 阿弥陀堂の扉を開けると ここ数日篭っていた老いた女乞食は 手足を縮こめて冷たくなっていた。 しかしその死顔は… 苦悶の陰り一つなく、何とも美しかったと 人々は不思議がって話したのだった。(完)
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