第1章

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 あれからたくさんたくさん日にちがたったのに、譲次さんはあたしの思っていた譲次さんのままだった。ちがう、そのもっともっと何十倍もすてきできれいだった。譲次さんがそこにいる、譲次さんがそこにいる……本物だ。あたしのおなかの穴はどんどん広がって、そこから思ってたことがどんどんあふれて出てきた。こう水みたいにゆかをぜんぶぬらして、へやいっぱいになって、くるぶしやひざの上までじゃぶじゃぶたまっていく。どんなにたくさん思っていたのか、あたしのことなのにあたしはちっともわかっていなかった。頭からつま先までぜんぶがぶるぶるふるえて、歯はかちかち鳴って、まわりに聞こえてしまわないか心配なぐらいで、両手できつくあごをおさえた。ここにあたしがいることを知られてはいけない。ぜったいにいけない。ぶるぶるしながらベッドの下からはい出した。こしを低くしてできるだけすばやく仕切りの横をすぎた。  そのとき女の人の声が、  「丈一、おかあさんよ、このあっぽが」  って聞こえた。とおりすぎながらあたしの体のぜんぶは耳になった。譲次さんがなにかしゃべらないかなって思った。でも、譲次さんはしゃべらなかった。  仕切りからだいぶはなれたところであたしはまっすぐ立った。チューブがたくさん出ている機械にかくれて、そっとふりかえった。  譲次さんのせ中が、せいの低い女の人のかたを支えていた。  あの女の人は丈一さんのおかあさん、なら、譲次さんのおかあさんだ。それがわかったとたん、あたしも後ろから女の人をだきしめたくなった。  お医者さんやかんごしさんやおかあさんは話したけど、譲次さんはしゃべらない。  せめて、せめて声が聞きたい。あたしはマスクをずっと上に上げ、ぼうしを目の半分くらいまで下げた。ここにいたらいけないのはわかっていた。それでもそこにいた。  ずいぶん長くいたのか、一しゅんだったのかはわからない。でも時間はすぎて、あたしはやっとあきらめた。  大きく息を吸って、とめた。口をぎゅっととじて、譲次さんにせ中を向けて歩き出した。おくの大きいとびらから出ようとしたけどあかない。いろいろさがしたけど、ふつうのドアにあるような手で持つところがぜんぜんないのだ。せ中がちりちり頭はぼわぼわして、このままでは気ぜつしちゃうって思ったとき、いきなりとびらがあいた。
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