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はっと息を飲んだ。
「千代!目に血が!怪我をしておるのか?」
「我を・・・我を抱いてくれぬか?」
二人の声が重なった。
一瞬、千代の瞳が血が滲んだように赤く染った瞳はいつも通りに戻っていた。気のせいだったようだ。
それより、とんでもない言葉を聞いた気がした。
「今・・・何と?」
ごくりと唾を飲み込んだ千代が口を開いた。
「わ、われを抱いてほしい、そう言った。」
抱いてほしい。
間違いなくそう聞こえてはいるが、まだ信じがたい。
「はあ、それは・・・新しい問答か何かでございますかな?」
「と、とにかく我を抱いてほしい!」
「意味が、わかりませぬ。」
「そのままの意味じゃ。女に何度も言わせるな。」
「何か勘違いをしておられるのではないですか?」
「しとらん!」
「では、抱くとはどういう意味でございますか?」
「抱くは抱くじゃ。男女の交わりに決まっておろう。それくらい知っておるわ。」
「ははっ、なんと!ご存知であったか。では、それはどう致すのですか?」
「むっ、我をからかっておるのじゃろう?そうはいかんぞ政次。我は真剣に申しておるのだ!」
「ならばお断り致します。」
「な!なにゆえじゃ!」
「何故と?理由など必要ないかと。貴方様は出家の身でございますゆえ。ささ、お部屋にお戻りくださいませ、次郎様。」
このような夜更けに、これ以上のふざけた話などする気は毛頭ない。帰れと言う以外ないだろう。
「このような夜更けにそのようなお戯れなど・・・。お部屋にお戻りくださりませ。」
「嫌じゃ。」
「お戻りくださいませ」
「い・や・じゃ!」
「今なら、先程の言葉、聞かなかったことにできまする。」
「ぜったいに、い、や、じゃ!」
一度決めたことは死ぬまで突き通すような女子であることは、承知している。だが今回は折れてもらわねば困る。
「戻れ」
「い、や、じゃ」
幼い頃からのいやだの一点張りには慣れていたものの、毎回腹は立つ。
項垂れて深く息を吐き、もう一度その瞳を見た。
「もうよい。それならば。」
今は何を言っても無駄だ。
わからせてやるまでだ。
政次はすくりと立ってすっと障子戸引いた。
冷たい夜気が部屋に流れ込んできた。
これで熱した頭が冷めればよい。
そう思いながら、仁王像のような形相で立ち塞がっている千代の腕を掴んだ。
「選べ。」
「何を?」
「いますぐ部屋に戻るか、ここに残るか」
「だから、」
「選べ」
「・・・最初から申しておるではないか」
「はぁ、鶴は・・・・我のことが嫌いか?」
「・・・・」
「我は女子に見えぬか?」
「・・・・」
「・・その、女子に見えるぬから、抱けぬのか?のう、鶴。答えよ。」
瞳が濡れて、ゆらゆらと光が揺れる。
「そういう、事ではない。」
理由がわからぬ。
出家した尼が、いつまでも待っても現れぬ許嫁を想い続けている女が、なぜただの幼馴染に抱いてくれと懇願するのか。
こんな茶番に付き合わされるのは限界だ。
「もう止めぬか!いい加減やめよ!ふざけた事を喚いてないで早う部屋へ戻れ、馬鹿者が!」
「嫌じゃ。我は至って真面目じゃ!ふざけてなどおらぬわ!」
「そうか、わかった。だが、もうこれで最後じゃ。戻れ。」
「嫌じゃ。」
もう天を仰ぎ見るしかなかった。
動く気配はない。
口を真一文字に固く結び、こちらを睨んだままだ。
「ならば・・・本気でそうしても良いと申すのだな?」
「うむ、最初からそう言っておる。」
もうこれしかない。
政次は覚悟を決めた。
「そうか、ならばよいのだな?こうしても···」
細い手首をつかんでぐっと引き寄せ、胸の中に招き入れた。
そして、いつも女を抱く時のようにきつく抱きしめた。
こうしたのはいつぶりだろうか。
幼いとき相撲をしようと誘われたとき以来か。
形は同じでも今と昔ではわけが違う。
躰は紛れもない女と男だからだ。
「鶴、我をそなたものに」
おずおずと背に回された手と、か細い声の懇願が全てを壊したのだ。
熱い躰を沈み込ませる時、全てを悟った。
止めることはできなかった。
ただ甘い蜜を味わいたい。
この柔らかな唇を吸いたい。
溢れる蜜の奥に解き放つ悦びを手放すことはできなかった。
俺は鬼か、蛇か。
それとも人でなしか。
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