妖御伽草子

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「まぁ、白狐をご覧になられた?  桂川の(ほとり)で、ですか?」 乳母(めのと)朝路(あさじ)が目を丸くし、驚きの声を上げた。 小鳥遊伊織(たかなし いおり)はあわてて首を振る。 「いや、違う。  白い狐の半面を被った…多分…若い男を見たんだ」 その言葉に朝路は頷いた。 「それでしたら、藤原雅嗣(ふじわらのまさつぐ)殿の御子息様で御座いましょう」 「中納言殿の?」 「ええ、違いありません。 御年は確か…若様と同じ二十二歳でいらっしゃったと思いますよ」 藤原中納言正嗣といえば『我が世の春』と今をときめく太政大臣・藤原道長の親戚筋に当たる。 「あら、でもそれは表向きの話でしょ。  本当は御堂関白※1様が、何処ぞの田舎から流れてきた白拍子との間にもうけられたお子だと、専らの噂よ」 横合いから侍女の桔梗(ききょう)が口を挟む。 桔梗は朝路の娘。 伊織にとっては乳姉弟(ちきょうだい)に当たり、気安く会話する間柄だ。 「これ、桔梗!  滅多なことを口にするものではありませんよ」 朝路に嗜められ、桔梗は肩を竦めた。 「でも、何故あのような狐面など付けていたのだろう」 伊織の疑問に朝路が答える。 「何でも、幼き頃にお顔にお怪我をされたそうで…  その際に出来た傷を隠す為に、常に面を付けているそうで御座いますよ」 伊織がきりりとした眉を下げた。 「その所為で、出仕も儘ならぬとか」 「年若いのに散位(さんい)とは、気の毒な事だ」 十二~十五歳の間に元服した貴族の子息は蔭位(おんい)の制により二十一歳に達すると、自動的に従五位下以下従八位下以上の位階が与えられる。 中納言は三位にあたり、その子息が授けられるのは従六位上だ。 散位とは、位階をもちながら官職に就かない者をいう。 主な理由は患解(かんげ)※2や致仕(ちし)※3。 若い身空で一度も出仕せず、散位となるとは… 半刻ほど前に見た妖しくも美しい姿が脳裏を過る。 伊織は胸の奥に、予感めいたざわめきを感じるのだった。 ※1:藤原道長が綴っていた日記「御堂関白記」よりその呼び名が付いた   実際道長は関白職に就いてはいない ※2:病気により120日を経た場合の解官 ※3:数え歳70歳を過ぎた者が官職を退くこと
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