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申の刻下(午後5時頃)まで、大納言家で催された歌会に招かれていた伊織は、ひとり帰宅の途についていた。
都の大通りを歩く足取りは、些か覚束ない。
たいして呑めぬ酒を勧められ、したたかに酔っていた。
律令により、六位以下の者が牛車を使うことは禁じられている。
伊織の官職は、近衛府の右衛門少尉 。
正七位上であるため、移動の手段は徒となる。
気付くと伊織の足は、桂川の方へと向かっていた。
川に近付くにつれ、ぽつりぽつりと破屋が目につき始める。
都の西の外れに位置する桂川の周辺は、低地のため水はけが悪い上に泥(湿地)が多く、しばしば疫病や洪水に見舞われていた。
荒廃した土地を捨て貴族は左京北部へ、貧しい者たちは東限を越え、鴨川の川べりに移り住むようになったのだ。
土手の上に立った伊織は、ぐるりと首を巡らせた。
昼日中でも人通りの殆どない寂しい場所。
ましてや、宵の口が近いこの時刻では人影どころか犬の仔一匹歩いてはいない。
……白狐など、尚の事。
水面を渡る風が、枯れた葦をざわざわ揺らし上気した頬を撫でる。
酔い覚ましには打って付けの、ひんやりとした空気。
腕を組み、紅く色づき始めた大きな欅に凭れかかると目を閉じた。
どれ程の時が経ったのだろう。
「申し…」
涼やか女の声が、直ぐ後ろから聞こえてきた。
驚き振り返ると、そこに居たのは壺装束に身を包んだ女房風の若い女。
歳の頃は二十五、六であろうか。
抜けるように白い肌が薄闇にも際立つ。
美しい顔立ちではあったが、どこか悲し気な風情が漂う。
このような時刻に、何故女ひとりで?
訝るような伊織の視線を感じたのか、黒目がちの瞳を僅かに伏せ
「わたくしは、然る中将様のお屋敷で働く端女に御座います。
主の用向きにより御願寺を詣でた帰り、この川原に差し掛かりましたところ急な疾風に笠を奪われてしまいました」
女が指差す方へ顔を向け、目を凝らすと水の流れの中に市女笠が、ゆらりするのが仄見える。
「大変不躾なお願いとは存じますが、あの笠を拾っては戴けませぬか」
潤んだような目でじっと見つめられると、すげなく断るのも気の毒に思えた。
伊織は、笑んで頷く。
「造作ないこと」
「誠に忝なく存じます」
女も花笑みを浮かべた。
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