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現れた蒼月を見るなり、伊織は「あっ」と声を上げた。
腕に古い筝を抱えている。
驚き目を見張る伊織を尻目に、涼しげな顔で筝を板の間に置く。
「蒼月……其れは」
「暁の女御さまより賜った。
筝が淋しい想いをせぬよう、慰めて欲しいと仰られてな」
長い指で糸を弾くと、筝は澄んだ音を響かせた。
「『初音』というのはその筝の名か?」
「ああ。
前にも云ったと思うが、『名』とは最も身近な呪。
名を以て、其のものを縛り付ける事が出来る。
初音も以降は職掌を全うし、音を奏でて過ごすであろう」
蒼月の弾く糸は、どれも楽しげな音で応える。
「とは言え、付喪神としてはまだ年若い娘。好奇心も旺盛だ。
時には人の形にて都を歩く位は許してやっても良かろう」
「そうか」
伊織の口許に優しい笑みが浮かぶ。
筝の行く末が気に掛かっていたが、蒼月が所有すると聞き
安堵に胸を撫で下ろした。
「ところで、その手にした包みは何だ?」
筝を爪弾く手を止め、蒼月が尋ねる。
「おお、そうであった。うっかりしていた」
結び目を解くと大きな鯛が姿を見せる。
「随分と立派な代物だな。
何かの祝い事か?」
尋ねる蒼月へ満足気な顔を向け
「お前の出仕祝いだ」
両手で鯛の乗った盆を差し出す。
昨日中務省の官吏から、藤原蒼月の陰陽寮への
出仕が叶った旨を聞かされ、早速自ら渡辺津※まで馬を飛ばし
買い求めてきた祝いの品だ。
伊織とは対照的に蒼月の眉間に深い皺が寄った。
「出仕が目出度いだと?
そんな物は厄介事でしかない」
途端、伊織の表情も曇る。
通常であれば出仕が叶うというのは大変な慶事である。
…しかし。
蒼月の場合はどうであろう?
御所へ参れば、必然的に内裏の権力者である実父藤原道長と
顔を合わせる事になる。
あの晩、偶然遭遇した親子の間に流れる冷ややかな空気を思い出し
単純に目出度いなどと、勝手に浮かれ騒いだ自分が急に恥ずかしくなってきた。
※摂津国の旧淀川河口近くに存在した、瀬戸内海沿岸で最大級の港湾
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