妖御伽草子

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女は先に立ち、川縁へと歩んで行く。 下草に覆われた悪路の筈なのに、まるで滑るように進む後ろ姿をよろめきながら追い従う伊織。 水際に着くと、女は振り返った。 「何卒、よしなに」 枯れ薄の間から、市女笠が見える。 枝にでも掛かっているのか、川の中央辺りで揺蕩っていた。 伊織は思わず眉根を寄せた。 近くで見ると笠の網は(ほつ)れ色褪せ、虫垂れ衣も所々に破れが目立つ。 どう考えても、つい先ほどまで被っていたものとは思えない。 一体どう云うことか…… 足を止めた伊織に向かい、女が手招きする。 「さあさ。もそっと、こちらへ。  早よう、早ように」 蠱惑的な微笑みを浮かべた。 伊織の中で違和感が広がり、警鐘が鳴り響く。 思わず一歩退いた。 「如何致しました。早う、拾って下さいませ」 甘く匂い立つ声に、頭の芯が痺れる。 「さあ、此方へ。おいでませ」 招きに引きずられるように、足を踏み出そうとした瞬間 「その女から離れろ」 鋭い声が後ろから響いた。 はっとなり、振り返ると白狐の面を着けた男が立っていた。 足早に近づいてくる。 「我の邪魔をするな」 女が獣の咆哮の様な声を上げた。 見ると、先程までの憂い顔は掻き消えていた。 血色に染まった眼は爛々と輝き、紅を引いた口は大きく裂け鋭い牙が覗いている。 「…鬼」 伊織は呟く。 透かさず腰に手を遣り、大きく舌打ちをした。 今宵は宴の招き故、太刀を携えていない――――― 今や鬼女と化した女の、不気味な嗤い声が辺りに響き渡る。 「さあさ、早う。此方へ…我に(うぬ)を差し出せ。  腕から喰ろうてやろうか?  それとも柔らかそうな喉笛を噛み切ろうか?  いや、いっそ頭からがぶりとゆこうか」 濡れた赤い舌でぬらぬらと唇を舐めると、山狗が如きの俊敏さでその身を宙に躍らせた。
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