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のあまり、前の角から馬車が飛び出してくるなど考えなかったのです。男はその日のうちに棺桶に入れられ、まもなく葬儀がとりおこなわれました。男の父母と数少ない友人達が男を弔い、墓の下の土に埋められていく様子をずっと眺めていました。それから数日経って、男の家を掃除していた父母が美しい薔薇の鉢植えを見つけました。父母はまさか自分達の子供が、この薔薇を妻として大事に扱っていた、なんて事は思いもしなかったのですが、その鉢植えの薔薇は不思議と男が埋まっている墓所の方角を見つめるように、花と蕾を伸ばしているように見えました。ちょうど、向日葵の花が太陽を睨んでいるように。持って帰って、世話をする気にもなれず、父母はその薔薇を鉢植えから、男の墓石の周りに植え替える事にしました。狭い鉢から、墓場の陰気な土に植え替えられた薔薇は、ぐんぐんと伸び、墓石の周りを茨がぐるりと取り囲み、真紅の花弁が男の墓を護るように咲く様になりました。父母は、広い土に根を下ろしたお陰で、ここまで大きくなったのだろう、と考えていましたが、私にはその様な理由ではなくて、この薔薇が男の愛情をきちんと受け取って、そのお返しをしているのが分かっていました。もうそれから幾分も経って、男も父母も友人達も亡くなりましたが、薔薇はいつまでも男の墓の周りに咲き続けていました。隣の墓まで無作法に伸びることは無く、茨が何重にも何重にも、咎人を閉じ込める檻のように形作られていきました。墓石に刻まれた男の名前も、茨の隙間からすっかり見えなくなっていきました。
もう誰もこの世に、この墓の下に眠る男と、その周りに咲く薔薇が愛し合っていた、と知る者はいませんでしたが、偶に墓参りにやって来る人達は、一つの墓石をぐるりと取り囲む、恐らく弔い花であろう薔薇の上に朝露が降り積もり、その幾重にも重なった花弁から清らかな雫が落ちるのを見ると、なんだか、その薔薇が泣いているように見える、と言うのでした。
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