第三章. 凍星

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*** やってしまった—。 呆然と天井を眺めていた。シャワーの音を遮ろうと適当に音楽を流すが、余計うるさくなってすぐ止める。 早くここを出たいのに気持ち悪くてフラフラする。 こんな感覚、前にもあった。そうだ、アイビーを初めて抱いた日だった。 「ねぇ、また会える?連絡してよ。君ならいつでも大歓迎さ」 濡れたままの前髪をかき揚げて、”ウィリアム”と名乗った男がニヤリと笑う。 穏やかに焼けた肌と見惚(みと)てしまうような筋肉から、俺は目を逸らした。 こっちは2度と会いたくない。 「…今日ここで起きたことは他言無用で。それから、お互い顔と名前を」 「忘れること。分かってるさ、マナーだからね」 あごや肘から水滴が滴り落ちているというのに、やつはベッドの端に座ってきた。俺は避けるようにして起き上がり、身支度をし始める。 「もう終わりかい?寂しいな」 その言葉を無視し、俺は外套(がいとう)のボタンを閉めずにホテルを出た。 アイビーと別れたのはかなり前で、馨仁と疎遠になったのはもっと前。それなのに、俺は二人のことを忘れられずにいる。 あの時。馨仁に俺とアイビーのことを報告した時のことを、しっかり覚えているのだ。 「あのさ、馨仁。えっと…俺、パパラチアさんと付き合うことになったんだ」 「え、そうなの?」 「うん…」 心拍音が跳ね上がって、耳の鼓膜を叩いた。 下を向いたままいると、馨仁は俺の手を取りあの無邪気な笑顔で言った。 「おめでとう、シュン。幸せになって!」 「…あ、ありがとう…」 おめでとうだなんて、聞きたかった言葉じゃない。 胸がチクンと痛んだのは、失恋したと直感的に分かったからだった。 馨仁からの、俺の親友からの心からの祝福だって分かってしまった。 アイビーを巻き込んでおいて失恋したというのは、あんまりだな。 ひどく後悔した。氷が割れてしまえば、俺は凍てつく海の中へ深く沈んでいくだけだ。 馨仁から続きの言葉を待っていた。 彼は浮かない顔をしている俺を不思議がっていた。 誕生日会は特筆すべきことはなく、サクラさんも誕生日プレゼントを喜んでくれたし、俺たちのことも祝福してくれた。 最後の最後まで、馨仁は俺の欲しい言葉をくれなかった。 「シュン、いるのか?」 父親の声が聞こえた気がする。一旦無視をした。 「シュン、いるんだろ?入るぞ」 今度はノック音が3回聞こえて、「なんだいるじゃないか」と言ってきた。 反抗期ではないけど、寝てるふりをした。 真っ赤に腫れた目を見られたくないし、失恋のショックのせいだなんて知られたくない。 「ちゃんと飯食ったのか?」 「…」 「体調崩したならすぐ診てもらえよ。それから、1週間くらい家空けるからな、留守番頼んだぞ」 ドアが閉まった音を確認して、俺は起き上がった。 デバイスを起動させて「今度の週末遊ぼうよ」まで表示された、開かずにいるメッセージを眺める。 「ちょうど親がいないから、こっちにおいでよ」と送れば、過度に期待させてしまう。 なぜならその続きはこうだから。 ソファーに並んで座ったら、ご飯を食べよう。そして、コメディアンたちの起こす笑いの波に乗っかって、終わったらお互い好きな音楽を聴いて自分だけの世界に入ろうか。 夜遅くなるとお母さんが心配してしまう。大丈夫、また明日来るといいさ。
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