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ベランダへ向かう隣人に続く。物が少なく、画材か空き缶か、といったところだ。覗き見たキャンバスには、汚れひとつ、ついていなかった。
空は、星どころか月も見つけられない暗闇だった。明日の予報は雨だ、今から準備をしているのだろう。
「綺麗な夜空だ」
隣人が、煙草をふかしながら言う。目の下にはクマができ、今にも倒れそうなくらい、気配が薄かった。俺は、少し不服を含んだ相槌をうつ。
「明日、結果が分かるんだ」
「……そうなんだ」
隣人の、煙草を持つ手が震えていた。俺はその方面に詳しくないが、今までに無いくらい、とても大事なコンテストである事が伝わってくる。もし、今回も結果が芳しくなかった場合、彼はどうなってしまうのだろう。諦めて「絵を教える」人生を歩むのか。
否。まだ知り合ってから半年くらいだが、「それは無い」と断言できる。きっとまた、自分をすり減らして挑戦し続ける。この、華奢でひょろ長い青年は、見かけによらずタフで、見かけ通り繊細なのだ。
指先が冷えてきたので、ポケットに手を入れる。さっきまで忘れていたが、いいものを持っている事に気が付いた。俺は、隣人の手首にミサンガをつける。
「お守り。貰い物だけど」
隣人は、しばらくミサンガを見つめ、「ありがとう」とはにかんだ。穏やかな表情に、安堵した。
次の日、隣人は帰ってこなかった。
あれから1週間、バイト帰りには必ず、外から窓を見てみるが、ついに一度も明かりはつかなかった。
今日も、窓から漏れる明かりはない。自分自身も帰省で長期間家を開ける事がある。それでも、どうも気がかりで隣の部屋のチャイムを鳴らした。反応は、無い。駄目元でドアノブを回すと、いとも簡単に重い扉が開いた。
どの部屋も構造は同じらしい。あるべき場所に、照明のスイッチがあったので、迷わず押す。目に飛び込んできた光景に、俺はその場にへたり込んだ。
部屋全体が、まるであの日の夜空だった。黒く、黒く、べたべたと絵の具が塗り重ねられている。
その黒の中で、鮮やかな色を持つミサンガが存在を主張していた。縋るように手を伸ばし、拾い上げる。結び目の真横が、切られていた。
視線を上げると、真っ白だった大きなキャンバスに、美しい星空が描かれていた。
あの日の真夜中に、隣人には、どちらの空が見えていたのだろう。
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