第1章

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 丈一さんはもう一度、上着のむねに右手をつっこんだ。  「今俺、すごくためになる教訓言ったよ。心のノートにメモしときなさいよ。ま、これも時制の問題だな。おまえに未来があったら、の話だ」  さっき、なんでつるぎ君がぎくりとしたのかがわかった。  上着のむねから出てきたのは、ライターでもたばこでもなくて、ぼんやり灰色に光った。  「初めて見るか? えりす」  丈一さんはうでを上げた。  「ならいい機会だ。覚えといて損はない、使い方を教えてやる」  つるぎ君は見てないし、聞いてない。じゅうたんに手をついて、写しんにかぶさったままだ。  丈一さんはポーズをとって指を動かした。なんだかドラマに出てくる人みたい。  「ここを一回かちっとしてから、こっちをかちっと半分引く。後は、全部かちっとすればいい。ほら、もっかいやるぞ」  かちっ、かちっ、か  気がついたときには、だいだい色のへやにはつるぎ君も丈一さんもいなかった。写しんもなかった。そうじ機がひっくり返っていて、たばこの吸いがらが二本落ちていた。  ゆめだったのかもって思ったけど、そのあとこぞうのつるぎ君を、あたしは一度も見ていない。  たまゑさんのお客さんが上とうなおかしをくれたので、たまゑさんはたいき所にいる女の子みんなに分けてくれた。なみだの形をした和がしだ。しっとりしたくりのあんこの中に、大きいくりがまるまる一個入っている。  おいしいねおいしいねっていいながら、みんなで食べてお茶を飲んだ。  眞知子さんが、  「あの人、たまゑにすっごくマジだよね、目を見たらわかる」  っていったら、たまゑさんが、  「よしてよあんなじじい、冗談じゃない」  っていって、みんな笑った。  でもすぐにぱたりとだまった。  番頭さんが入ってきたからだ。番頭さんはみんなをじろっと見て、  「静江、明日19時にヤマダ様」  ってあたしにいって、かべのボードに書きこんで、  「おまえら、菓子ばーっかり食いやがって、ぶくぶく太るぞ」  っていってからたいき所を出ていった。  そのせ中に向かって、みんないっせいに舌や中指をつき出した。  小百合さんがひそひそ声であたしに、  「静江ちゃん、ヤマダ様ってあれでしょ? むらさきの君」  って聞いたから、あたしは指をくちびるにあてて、  「そういえばいっつもむらさきのレインコートきてますね。あ、ああいう人を雨男っていうの?」
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