そうして君は遠くへ行くのだろう

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そうして君は遠くへ行くのだろう

「そんな馬鹿な話があるか!」 そう普段から大きな声を一層荒げて、堀田はぐんと勢いよく立ち上ると、つかつかと扉の方へ移動し、そのまま店を後にして行った。 これはいかんと私は思う。 見れば、やはり美野の絶えず真っ白い顔が更に白くなっており、その目には涙こそ浮かんではいないが、今にも泣き出しそうに歪んでいる。 堀田幸夫と美野春彦は同じ大学予科の文学部に通う同級生である。この文学部というのが新設されたばかりであり、学生は堀田と美野、私の三人しか在籍していない。そんなであるから、私たちの仲が深まるのは必然であり、時間は要さなかった。特に堀田と美野は予科に入学する以前からどこぞの出版社に共に出入りしていたらしく、私と出会う頃には既にその関係は出来上がっていた。奴らは親友などという可愛げのあるものではなく、正に二魂一体の表現が相応しい。 堀田という男は派手好きで、平素から山高帽子に編み上げのブーツを履き、西洋風のステッキをぶんぶん振り回している聞かん坊であった。一方の美野は、華奢で色白く、至る所から美青年の名を欲しいままにしているような男である。それがいつ何時もくっついて歩いており、加えて文学を学ぼうなどという変わり者なのであるから、目立たないわけがない。一部では男色の噂なども出回っている様だが、気にする素振りなど見せたこともなかった。私も文学者を志す端くれ、他がどうのこうの言える立場にはないが、奴らが私以上の変態であることは断言できる。 そんな二人が何故冒頭のようなことになっているかというと―― 「坂井君、いよいよぼくは幸夫君に話そうと思う」と美野は言った。 堀田は朝寝坊、美野は風邪ばかり引き、私はたいてい二日酔いで、三人揃って講義で出会うことは稀であるからして、月に一遍はのっぴきならない事情がない限り、どこでもいいから集まって、雑談に花を咲かせようと取り決めていた。私たちはその日のことを<ツキイチの日>と呼んでいた。そのままであるが。そのツキイチの日まで一週間と迫ったある日に、私は堀田のいない教室で、美野から「約束の時間より三十分早く来てくれないか」と頼まれた。そして言われた通り、堀田が現れる三十分前に、今回の集合場所である行きつけの<Cafeオリビエ>にやってきたのである。 難しい顔で返事を待つ美野に、私は運ばれてきたばかりの珈琲を一口飲んでから、「そうか」と頷いた。 「君が決心したというなら、それがいい」 「幸夫君は怒るだろうね」 「そうかもしれない」 「もしかしたら絶交と言われるかもしれないね」 「そうかもしれない」 美野は机に突っ伏した。そして小さな声で泣き言を零すのである。 「やっぱり嫌だ」 「君なあ、決心したんじゃないのか。まだ一分と経っていないぞ」 「したとも、決心したとも。何れにせよ、今日言わなければいけないんだ。もう時間がない」 「出発は何時だった」 「……一週間後」 これには私でなくとも閉口したくなるというものだろう。 「よくここまで引き延ばしたもんだな。私が君から事情を相談されたのは三週間も前だ。何故その時点で堀田にも言う気概が無い。本当に君は奴のこととなるとてんで駄目になるな」 「返す言葉もありません」 「ならばもう言うしかないぞ。言え、何があっても言うんだ」 美野は何か言いたそうに口を開いたが、上手く言葉にならなかったようで、すぐに真一文字に唇を結んで頷いた。 私は乗り出していた身を引いてソファに座り直すと、また珈琲を一口含んだ。かなり厄介なことになりそうなのは目に見えていた。 それから程なくして、珍しく約束の時間より幾分早く、堀田は現れた。今日も今日とて、熱心にステッキを振り回している。堀田は入り口できょろきょろと首を動かして私たちの姿を見つけると、途端ににかりと笑って大声で「おい」と言った。ずんずん大股でこちらへ歩いてくる。 「何だ、二人とも。今日は早くないか?俺が一番乗りしようと思っていたのにな」 「それは悪いことをしたな」と私が言ったのに対し、美野はただにこにことぎこちない笑顔を浮かべている。本当に切り出せるのだろうかと心配になるのを他所に、こちらの心境など一切関知しない堀田は当たり前のように美野の隣に座って、やってきた給仕にカフェオレを注文している。 「何だ、今日は珈琲じゃないのかい」 「ここに来る前に短編を一本仕上げてきたんでな、頭が疲れているんだ。そういう時は甘いものだろう。このカフェオレてのは実にいいな。甘過ぎず苦過ぎずいい塩梅だ」 「私は飲んだことが無いな。苦いのはいいが甘いのは苦手だ」 「飲まず嫌いはよくないぞ。一度試してみるといい」 「死んだらな」 「また頓狂なことばかり言う。死んだら何も飲めんだろう」 「わからんよ。あの世にもCafeはあるかもしれない」 「あの世にCafeか。そりゃいい、今度それで一本書いたらどうだ」 堀田は冗談を言ってケラケラと笑う。そこへ丁度、給仕がカフェオレを運んできた。牛乳と珈琲が混ざり合って薄茶色になったその飲料を、堀田は至極美味そうに飲む。喉が乾いていたのか、グラスの半分程を一息であおっている。 「ところでその短編てのは、何かに発表するのか」 「いいや。先生に何か書けと言われたから書いているだけの練習文さ」 先生というのは、堀田と美野が出入りしている出版社の社長でもある、世間ではそれなりに有名な作家のことだ。 「まあ、上手くまとまったら、ほら、あれだ、俺たちの同人誌の創刊号に乗せようと思ってな」 堀田は目を爛々と輝かせてそう言った。しかし、私は彼の光明に満ちた心持とは裏腹に、とても後ろめたい気持ちになってしまって、すかさず美野の方を見た。美野は薄い唇を震わせていた。 やはりだめなようだ。 何も知らずにいる堀田と、言い出せずに苦しんでいる美野。もう流石に心苦しさが募る一方なので、ここは私が切り出すべきかと逡巡したところで、美野が「幸夫君」と重い口を開いた。 「どうした、春彦」 「そのことなのだけれど」 「うん?」 「僕は、その同人には、参加できそうになくなってしまった」 「何だと」 今の今まで楽し気に綻んでいた堀田の顔が、瞬時にして固まった。何を言われたのか理解できないという風に、美野を凝視する。 「どういうことだ」 「ぼくは、……ぼくは外国に行くことになってしまった」 「がい、こく」 「父からメキシコに来いと知らせが来たんだ。どうやらぼくが文学の勉強をしていることが父の耳に入ってしまった」 美野の父は外交官をしており、息子が同じ職に就くことを望んで勉強させていた。しかし、美野は外交官になるためではなく、あろうことか一切将来の保証されない文学にのめりこんでしまった。それを知った美野の父は、自身の赴任先であるメキシコに息子を呼び寄せ、それからベルギーに留学させようと目論んだらしい。 事のあらましを一通り聞き終わると、堀田は短く息をついてから、美野に問いかけた。 「出発は何時だ。急なことではないんだろう」 「七日後だ」 「七日――」 堀田は「はは」と乾いた笑いを浮かべる。 「冗談だろう。学校の手続きもある、荷造りだってしなければならんだろう。お世話になった先生方に挨拶も」 「学校の手続きはもう済ませてある。荷造りと挨拶はまだだけれど、七日もあれば全て済むよ。実を言うとね、幸夫君、父から知らせがあったのは三週間も前なんだ。言わなければと思っていたけれど、どうしても言い出せなくて。すまない」 机に置かれていた堀田の左手はいつの間にか拳になっていて、小刻みに震えている。視線を俯かせて、堀田は私に言った。 「坂井、お前は知っていたのか」 「ああ」 「何故言わなかった」 「美野が隠しているのに、私が言うわけに――」 いかんだろう、と続くはずだった私のセリフは、堀田の怒号にかき消された。 「ふざけるな!そんな馬鹿な話があるか!」 そうして堀田は店を出て行った。 ――そういうわけで話は冒頭に繋がるのだが、私がこれはいかんと思ったのは、何も美野だけではない。堀田もそうだ。怒鳴った奴の顔はさぞや真っ赤になっているものと思ったが、そうではなかった。美野と同等まではいかずとも、奴の普段の肌色からしてみれば、十分な程に蒼白していた。それはそうだろう。ただの友人である私ですら美野の旅立ちは残念で仕方がないというのに、それが堀田の立場ならばどれ程の痛手だというのか、容易には想像しがたい。半身を引き裂かれる思いであろう。 「どうするんだ」 私は美野に尋ねた。 「むしろどうするつもりだった」 「幸夫君が絶交だと言うなら、そうしようと思っていた。けれど――どうすればいい。ぼくはどうすればいい、坂井君」 「そんなこと私が知るか、自分で考えろ。そもそもは君が意気地なしだったのが悪いんだ。自業自得だ」 「そうなのだけれども」 突っぱねる態度にとうとう美野は我慢が堰を切ったのか、ほろほろと涙を流し始める。 私はどきりとした。 「何を泣いているんだ、大の男が公衆の面前で泣くんじゃない」 「だって、坂井君が冷たい」 着物の袖で雫を拭いながら、まるで女々しいことを言う。けれどこの男に掛かれば、そんな仕草すらも絵になるものだから、実にはた迷惑な容姿である。 私は自分を甘やかさない。ついでに他人も甘やかさない。だのについつい手を貸してしまうのは、私でさえもこの美男子に惚れているからに他ならない。 「ハア、わかったよ。とりあえず堀田の後は私が追おう。君は葉書でも何でも書いて、さっさと奴の機嫌を取ることだ、いいな」 私は尻の横に置いていた帽子を手に取って、立ち上がった。 堀田の行きそうな場所なら容易に見当がつく。
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