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空はこれでもかという程に晴れ渡っている。まるでこれからの長い船旅を祝福しているかのようだ。
埠頭には外国行きの大きな船が停留し、乗り込む人々や、それを見送る人々で賑わっている。
今日、美野はこの船で旅立つ。留学は長期に及ぶだろう。いつ帰って来られるとも知れない。否、もう帰っては来ないかもしれない。互いに生きている内に二度と会うことは叶わないかもしれない。今この国では結核という不治の病が蔓延しており、私もいつ患ってもおかしくはない。それに美野は美野で体が丈夫ではない。不慣れな外国生活で病に伏せる姿など容易に想像できるというものだ。つまり、人はいつ死ぬかわからないのだから、これで彼の姿を拝めるのは最後かもしれないということ。
美野は少し離れた所で見送りに来た夫婦と雑談をしている。あれは例の出版社の社長夫妻だ。その他にも、美野の周りには沢山の人間がいて、彼がどれほど魅力的な人物であったのかが窺い知れる。しかしその中に、肝心の姿は無い。
私はあれから、幾度も堀田の家を訪ねた。だがどんな言葉を掛けようと、「少し整理させてくれ」の一点張りであった。美野は葉書や文を幾通もしたためたらしいが、とうとう返事が返ってくることは無かったそうだ。
一人一人と挨拶を交わしていた美野が、私に気づいて近寄ってくる。
「やあ、坂井君。来てくれたんだね」
「ああ。調子はどうだい」
「悪くないよ」
「そうか、それはよかった」
「幸夫君は――」
「見ないな」
「そうかい」
美野は寂しそうに視線を落とした。けれどすぐに気丈に振る舞う。
「いや、わかっていたから、いいんだ。君と会えただけでも嬉しいよ」
そう言って笑う。
ぐさりと棘が刺さったように胸が痛んだ。
「何故笑うんだ。寂しいなら寂しいと、腹が立つなら腹が立つと言えばいいだろう」
私がそう言うと、美野は「そうだね」と頷いた。
「けれど今日は笑っていようと決めたんだ。折角の旅立ちだからね」
「馬鹿な奴め」
ぶおっと船が煙突から煙を上げ、大きく嘶いた。
いよいよ出発の時が来たようだ。別れを惜しんでいた家族や恋人たちも、次々と船に乗り込んで行く。美野も、足元に置いていた旅行鞄を持ち上げた。
「では、坂井君、さよならだ」
「ああ、さようなら、美野。良い旅を」
美野はにこりと微笑んで、私に背を向け、もう振り返りはしなかった。
私は遠ざかっていくその華奢な後ろ姿をずっと見ていた。点になって見えなくなるまで、見ていようと思った。
美野は階段を伝って船上へ上がり、側面の欄干へ寄って、見送りの知人たちへひらひらと手を振っている。
そして再び、船が汽笛を上げた。
私は振り返った。聞こえたような気がしたのである。幻聴かとも思い、決して良くはない目を細め、探した。すると、港を行き交う人々の合間を縫って、全速力でこちらへと走る姿がある。
「春彦ォー!!」
今度はしかと聞いた。
堀田だ、堀田が来た。あの阿呆、ようやっと来た!
私は大きく腕を振って、今生最大といっても過言ではない程の大声を出した。
「堀田ー!!こっちだこっちー!急げぇ!!」
船はゆっくりと動き出している。
堀田はものすごい形相で顔を真っ赤にして走っている。
私の前を猛烈な速さで通り過ぎ、驚く衆人には目もくれず、堀田はもう一度、最愛の友の名を叫んだ。
「春彦ォー!!」
今度こそは美野にも届いた。
美野は欄干から身を乗り出し、応える。
「幸夫君!!」
「春彦!お前は、お前は、外国に行って大好きな文学を学んでくるんだな!」
「そうだとも!ぼくはやめない、やめて堪るものか!ぼくは書くよ、幸夫君!君に並ぶ立派な文学者になってみせる!」
「俺も書くぞ、春彦!書いて書いて、いつかこの国に名を遺す作家になる!だからお前は、絶対に、俺の本を読みに、帰ってこい!!」
「ああ!いつか必ず、君の隣へ帰るとも!待っていてくれ、幸夫君!」
船尾が埠頭の先を超えた。
堀田は徐々に足を緩め、完全に止まる前に、地面に崩れ落ちた。
私は蹲る堀田に駆け寄る。奴はらしくもなく、荒い息の中で背中を震わせ、消え入りそうな小声で「行かないでくれ……」と呟いていた。
「堀田」
私は堀田の横に屈んで、既に遥か彼方の船を見据えた。
「実に素晴らしい走りだったな。作家など辞めて陸上選手にでもなったらどうだ」
「阿呆か」
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