第2章

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 彼女はDVDを初めて見たという様子でメニューの画面を見ながら嬉しそうにリモコンをいじっていた。他人にものを頼んだらありがとうぐらい言えよな、と僕が内心思っていると、奈々子に尋ねられた。 「ところであなたの名前、まだ聞いていない」 「谷崎」 「谷崎、who?」 「谷崎敦」 「じゃ、敦さん、どうもありがとう」  奈々子はあまり感謝の気持ちがこもっていないくぐもった声で言うと、すくっと立ち上がった。何であんたがここにいるの、という具合に眉をしかめた顔で見下ろされ、僕はまるで闖入者みたいに居心地が悪くなった。  この前見かけた彼女の猫がリビングに出て来て、飼い主と同じく可愛げのない声で、みゃお、と鳴いて僕をにらむ。追い出されなくたってこちらから勝手に出て行きますよ。  と、そんな感じで僕は彼女の部屋を後にしたのだった。無論、奈々子は見送りになんて出て来ない。綺麗な顔をしているくせに愛想が悪いし性格も相当悪そうだ。そしてその判断は間違っていおらず、それ故に僕は奈々子に翻弄されることになったのだ。  岡本さんの奥さんには何度も逢ったが、エクボの可愛い人だ。時おり彼の仕事が終わる頃に迎えに来る。奥さんは近くのコーヒー・ショップで働いていて、二人で夕食の買出しに行くらしい。  彼女は僕の顔を見ると、いつもにこりと微笑してくれる。それは、お元気? と尋ねてくれているようでもあり、主人がお世話になっています、みたいな挨拶のようにも感じられる。普通、顔見知りにはそんなふうに笑顔で挨拶するものだ。  その常識を破っているのが例の奈々子だ。あれ以来、僕はほとんど毎日レンタル・ショップで彼女を見かける。でも視線が合うと、彼女はにこりともせずにそっぽを向く。必ず。  最初は、見知らぬ他人にものを頼んだことを恥ずかしがっているのかな、と好意的に考えてみたが、二度三度とそっぽを向かれて、彼女が意識してこちらを避けていることに気づいた。なぜなのか、理由はわからない。  ひょっとしてあの日の僕は汗臭かったかな、とか、ジーンズが薄汚れていただろうか、としばらく思い悩んだが、それもやめにした。  せっかく親切にしてやった返礼がこれだとしたら、そういう性格がゆがんだ女とは隣人だといえ金輪際付き合ってやるものか、と胸に誓う。
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