第3章 猫を抱く女

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「仲良くしようぜ。お互い、置いてきぼりなんだからさ」  彼女の部屋は何度も訪ねたことがあるものの、こうして主のいない家をじっくり眺め廻して見ると、やっぱり不思議な感じがした。生活感の匂わない家なのだ。ダイニングもリビングも整頓されていて、本や雑誌が散らかっているのを見たことがない。  キッチンにも空き箱とかそういう物はまったく見当たらない。見苦しいものはすべてキャビネットに入っているのかもしれないけれど、まるで家の展示会場にあるショールームみたいだ。  ベッドルームの扉が少し開いている。たぶんミミという猫はあの部屋に眠る場所があるに違いない。大きなベッドが置いてある。ベッドカバーはきちんと整えられているから、きっと出かける前に奈々子が片付けたのだろう。  この前彼女の部屋から出て来た男の横顔を再び思い浮かべ、私の部屋とか絶対に覗かないでね、と言われたことを思い出した。  いったいあの部屋にはどんな秘密が隠されているのだろう。鶴の恩返しの話のように、部屋を探ったりしたら彼女が眼の前から飛び立ってしまうような重大な事実が明らかになるのだろうか。  覗かないでね、なんて言われると、それだけで覗きたくなる。あの男の面影が再び脳裏に浮かび、奈々子があの男と広いベッドで抱き合っている様を、いやでも想像してしまう。彼女のあの長い脚が惜しげもなく開かれて男の背中に絡まる様子を。  めまいがして、僕は慌てて彼女の部屋を出た。    日曜日は夜の勤務だけなので、僕はひたすらワープロを打った。  今書いているのは、明るいやつだ。青春物、の範疇に入るかもしれない。奈々子のせいで、自分だったら選ばなかったであろうその手の映画やドラマを幾つか見た。そして、なぜか共感し感銘を受けたのだ。  斜に構えて救われない複雑なものを心の奥を掘り起こすみたいに緻密に描くことが文学していることだと漠然と考えていたのだけれど、ひょっとして時代はもっと素直で明るい話を求めているように思える。  自分も含めて、その日暮らしをしている若者だって、やっぱり未来とか希望という言葉に心惹かれるものじゃないだろうか。若いということは夢を抱くことを赦される特権階級であり、今この想いを記さなくて、いったいいつ書くことができるだろう。
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