第4章 心はどうした?

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 でも、その映画の中で吐いた男の声が執拗に耳に残っている。彼女を失って彼が身体を震わしながら瀕死の動物みたいに嗚咽する声も。そして僕は彼にたまらなく嫉妬する。ただ一人だなんて言える最愛の女を勝ち得た男の生きザマに。  うなされていたのだろうか。思わずまどろみから揺り起こされ、僕は腕を伸ばして眠っている由香里の裸体を背後から抱き締めた。胸を掠めるわけのわからない虚しさを忘れるために、僕は縋りつくみたいに、一心不乱に彼女を求めた。  あれから奈々子は何も言って来ない。僕のせいでミミが病気になったことをまだ怒っているのだろうか。今週も彼女はレンタル・ショップに顔を見せなかった。もう借りたい映画が残っていないということかもしれない。  由香里とは先週も平日の晩に二回ほど逢った。こちらには金もないので駅前で簡単な食事をして、マンションへ戻って彼女を抱く。それはそれで満ち足りた生活と言えないこともないけれど、なんだか僕の心が逃げている。  彼女はうちで夕飯を作ることを提案してくれたが、僕は、取り合えず、その申し出を断っている。そんなことをされたら、エプロンと一緒に彼女がうちに引っ越して来てしまうような気がして、ちょっと怖いんだ。  だからと言って、彼女に今いなくなられるのも、困る。彼女を抱いている時だけ、僕は他のことを思いわずらうことなく、ただただ快楽を追求できる。精神安定剤であり、睡眠薬みたいなものだ。身体がどろりと溶けたみたいに気怠くなり、疲れ果てて変な夢も見ずに眠れる。  いったい何を怖れているのだろう。何を夢見ることを怖れているのだろうか。  小説の筆が進まなくなった。ワープロを開いても、胸の中に曖昧にくすぶっている戯言しか書けなくなった。インスピレーションらしきものが閃かず、これだ、という啓示がない。  ナイーヴなほど初々しく、爽やかで明るい青春の群像を書きたかったはずなのに、僕の文章は再び重く暗くなり、書いては消し、また打っては削除し、という無駄を続けている。惰性なのかな、と思う。  書きたい気持ちが指の間をすり抜けているのに、僕は相変わらずワープロのスクリーンを眺めて一応指をキーボードに乗せる。まるで指が勝手に名作を生み出してくれるのを期待するみたいに。  心はどうした? 魂はどうした? 
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