第1章 未知との遭遇

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 僕が東京の大学に入った時に、親父は不動産に投資するつもりで学生には豪勢過ぎる1LDKのマンションを都内に買ってくれた。地下鉄駅に近く、高台に立っているので見晴らしが良い。  景気の回復と共に不動産価格も上がり、マンションを売却して値上がり益を確保したいらしい親父に、大学を卒業したのだから住居ぐらい自分で手当てしろ、と宣告されてはいるが、取り合えず、ということで僕は引き続きここに住んでいる。  この頃、この、取り合えず、が何かと増えたように思う。  広いカウンター・キッチンで濃いコーヒーを淹れた。正月に実家に帰った時にお袋から譲り受けたイタリア製コーヒー・メーカーだ。  久し振りに徹夜をしたので、頭が鉛の蓋でもかぶせられたみたいに重い。コーヒーの香ばしい香りを嗅いでいるうちに、やっと脳味噌が回転を始めたようだった。シャワーを浴び、トーストでも焼いて食って、生ゴミを出して。そうしたらもう出勤する時間だ。  借りたDVDは営業開始の十時までには棚に戻すことになっている。他の店には店員からもレンタル料を取るところがあるらしいが、うちの店はそんなケチなことは言わない。  逆に、少しDVDでもCDでもコンテンツを知って客の質問に答えられるように勉強しておけ、と物分りがいい店長は言う。しかし営業時間には店に戻すことが規則なので、借りられるのは朝の二時から十時まで。睡眠時間を削ってまで見たいDVDなんて、そうあるわけじゃない。  駅前の店までは歩いて十分ほどだ。公園の脇を通る際にベンチに人が座っているかどうかのぞいて見たが、やはり誰もいなかった。  悪いクセだ。あの蒸し暑い晩以来、行き帰りに傍を通るたびにどうしても公園が気になって足を向けてしまう。  またあの子を見かけるんじゃないかと半ば期待し、そんなことはもう二度と起こるまいと半ば諦めつつ、奥のベンチに視線を向ける。そして、誰も座っていないベンチに、やっぱりな、と密かに納得するのだ。  コインを投げて表が出るか裏が出るか占う気持ちと似ているだろうか。いや、確率は半々以下だと胸の内で悟っているから、ちょっと違う。偶然とは、どのくらいの確率を指すのだろう。千分の一、或いは万分の一ぐらいだろうか。  十時の始業時間に遅れそうになっていたので足を速めた。あの子をレンタル・ショップで見かける可能性の方が高いかもしれない。
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