第1章

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 ごほごほ、しばらくせきこんだ。  「……僕なんか、心配しないでくれ……もちろん、ちゃんと話し合う……君の言うとおりだ……うん、約束する……わかった……」  ろう下からのぞくへやの中はまっ暗で、すがたはぜんぜん見えない。でも声は、まるであたしの耳のすぐそばにいるみたいにはっきり聞こえた。  譲次さんはたしかにいった。  「すぐに帰る」    気がついたら、あたしはゆかたも長ぐつもぜんぶぬいでおふろ場にいた。  プールぐらい大きいおふろにすきとおった緑色のお湯がゆれて、下からのライトで光る。白くにごったお湯じゃなかったので、はじめはちょっとがっかりしたんだっけ。でも、今見たらすごくきれい。 ― えりすは俺のものだ。  体がぴくん、として、きょろきょろまわりを見た。だれもいない。  光とかげのあみめもようになったお湯に、ちゃぽんとしずんだ。あたしの体はライトに照らされてまっ白で、むちむちいやらしくゆがんだ。 ― おまえは、俺のものだ。  今度ははっきり聞こえて、あわててお湯から上がった。  でも聞こえるはずないってわかってた。ほんとの音はお湯が流れる音だけだ。  体がどんどん冷たくなっていく。ばかをとおりこして、頭がくるった人だと思った。  おけでお湯をくんで、何度もあびた。  その後、ごしごしかみや体を洗ったけど、あたしのきたないものはちっともとれなかった。  そうっとカーテンをひらいて、あたしは、  「うわ」  って、声を上げた。  まどの外、きのうまでのかれ草色の原っぱは、たくさんのまっ白な丘に変わっていた。  遠くにおとうさんらしい大人とふたりの子どもがいて、すべったりころがったりしていた。子どもの笑い声がきれぎれに聞こえてくるのに、あたりはすごくしずかだ。  「うわーうわーうわー」  すっかりわくわくして、体じゅうがぽっぽとあつくなって、あたしは知らない間にぴょんぴょんとびはねていた。でも、  「あ、ごめん」  っていってふりかえった。後ろがごそごそしたからだ。  あたしは全そく力でベッドにかけていって、  「うるさかったね、まぶしかったね」  っていいながら、起きてすわろうとするのを手つだった。  譲次さんはずいぶんほっぺがやせちゃって顔色も白かったけど、熱も下がって、病気の一番悪いところはすぎたように見えた。きのうお医者さんにみせて、点てきを打ったりクスリを飲んだりしたからだ。
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