第1章

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 あきらめたのか、鴎さんは話をつづける。  「とにかく、樋口は決心した。ホテルの人が近づくのを待って、君へさんざ悪態をつき、君に銃を握らせて、自分を撃った。ホテルマンは思わくどおりの証言をしてくれて、シナリオは完成だ。弟の自殺に兄が錯乱して、自分を撃てと、憎い弟の愛人に強要した。拒まれたんで、拳銃を無理やり女に持たせて自分で引き金を引いた……って」  あたしはまだ笑っている。  ため息をついて、鴎さんは桜の木を見上げる。  「そうか、その調子でいくつもりなんだね、ソーニャ。いやはや、困ったな。これからが僕の一番聞きたいところなのに。つまり、動機だ」  それからしばらくあごをひねったり、足を組みかえたりしたけど、もう一度あたしのほっぺにさわる。  「文字通りの引き金は、やっぱ、譲次さんの電話?」  ほっぺをなでられながら、あたしはやっぱり笑っている。鴎さんのおしゃべりは空気をふるわすだけだって思ってるから、なんにもひびかない。  「僕だって、駆け落ち相手がそんな電話かけてるのを聞いたら……めためた興奮する。きっと、胸の深いところをナイフでぐりぐりされるみたいな気がするだろうな」  あたしをあきらめて、また桜を見上げる。  「うかつだしひどい話だ。娘の制服のリボンのしまい場所のために、駆け落ち先から妻へ電話するだなんて。  でも、社会でまっとうに暮らしてる人間ってのは、そういう日常の積み重ねが全てなのかも。断ち切られると、判断が下せなくなって、ついつい今まで通りの行動を踏襲してしまう。つまり、誠意あふれる話し合いをもってすれば理性的に建設的に、この難題にもけりがつけられる、とか信じちゃうんだ。  狂犬の兄貴に、裏切られた妻……捨てられた子ども……そいつらのルサンチマンや絶望は、そんな日常の器なんかにゃとてもじゃないけど入りきらない、ずっと大きくて深いのに、忘れちゃうのか、最初から気がつかないのか……あーあ、イノセントってのも、過ぎればひどいや」  ぽんと、車いすからとび下りる。少しはなれて、あたしを見る。  「君のことだってそうだ。君の危うい立場と自己犠牲の大きさを、彼はどのくらい実感してたのかな……少なくとも、血を吐くレベルじゃなかったね」  うでを組んで、早足であたしの前を行ったり来たりしだす。動物園のとらみたい。
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