第1章

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 パンジーもゆきやなぎもチューリップも桜の木も消えて、車いすも消えて、あたしはひとりぼっちで、へやのすみっこにしゃがんでいた。  顔や耳がはじけそうにあつくどくどくして、両方のうではがくがくふるえて固まっていた。  ふっと空気が動いた。かげがかぶさって、いきなりあたしをだきしめてキスした。あたしは頭がしびれて、なにも考えられなくなって、入ってきた舌に舌をからめた。たばこの味がぴりぴりした。  口をはなして、その人は、  「えりす」  ってささやいた。悲しそうな白っぽい目だ。  「走れ、ここから遠くへ走れ」  灰色の上着にしがみついて、あたしはくすくす笑いだした。  「あーよかった、丈一さんだあ、よかったあ」  あんまりうれしくて、口がかってにしゃべりだす。  「あのね、あのね、あたしおふろ場で、ひとりで、いやらしいことしちゃった。ことり荘でした、いろんなこと思い出して」  笑っちゃいけないと思えば思うほど、笑いがとまらない。くすくすくすくす、ふるえるあたしはもっと強くだきしめられた。  息が耳にかかる。  「俺なんて、毎晩やってる」  丈一さんも笑っていた。  やっとわかった。あたしこの人好きだ。こわいことはぜんぶなくなって、きっとしあわせになってほしい。そういうのをちゃんと伝えなきゃって思って、ぎゅっと力をこめた。  でも、つかんだ手の感じもやさしい笑い顔も、みるみる白いきりにかくれてしまう。あたしのそばにのこったのは声だけだ。  「走れ、えりす、走れ」    さく。  首をふって体を起こし、見まわした。あたしは泣きながら雪の中にいた。  立ち上がって、長ぐつを下ろした。   ◆  小さい音がして、あたしは目をあける。  ねぶくろのままだから天井しか見えない。  まどからの光が、天井にしましまの絵をかいている。その長さでだいたい何時くらいかわかる。まだ、ま夜中の少し前くらいだ。  今度ははっきり、かぎのまわる音がする。  「待たせたね」  声で熊谷先生だって、すぐにわかる。  あたしは目をあけたままじっとしている。  ごそ、ごそ、いつもとおんなじに先生はベルトをはずし、あたしのねぶくろをすっかりひらく。  「ちゃんと全部飲んだね、いい子だ」  っていいながら、あたしのね巻をぬがせて、おむつもとる。  夜の空気が体のぜんぶにさわって、あたしは小さく息を吐く。  先生はいつもとおんなじに、
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