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真夜中にぼくは抜け出す。田を駆け、墨の色をした水路を泳ぐ。
風が吹くと、緑の気配を消した草たちが、さざ波に似た心地よい音をたてる。
誰もいない。見つかることもない。こんなに安らかな場所をぼくは他に知らない。
田に広がる稲穂の森。今夜はやけに静粛だ。満月の光をその身に受けているからだろう。まわりの雲も避けるほどの強い威厳を放っている。
闇の深い山側へ向かうと、大きな灯籠のように光るビニールハウスが見えた。隅に立つ小屋にも灯りがついていて、そこからは音楽が聴こえる。
窓に近づいて草の間に隠れ、鳴き声を止めた蛙たちと一緒に耳をすませた。ゆったりとして重い、なんだか懐かしいメロディだ。
青年が椅子に座ってチェロを弾いている。慎重な手つき、弦へ注がれる眼差し、祈るような響き。ぼくにはそれが神聖な儀式に見えた。
知らない内に草から顔を出していたぼくは、何気なく外に視線を向けた彼と目が合ってしまった。
彼は音楽を止めたり、不審がったりはしなかった。悪戯っぽい微笑を浮かべると、弦を指すように見下ろし、それからぼくのいる夜を見た。その目は夢のなかにいるように虚ろで、うっとりして、すべてを閉ざしていた。
ああ、ぼくと同じだ。不躾な車のヘッドライトを憎み、人間のいない静寂を愛し、月のもとにしゃがみこむ者。彼もまた、闇を切り裂く光に怯える仲間なのだ。
ぼくや彼は諦めることができずに、毎晩こうして悪あがきをするのだ。今日こそ明けずに済むのではないか、どうにかしてこのまま夜に留まれないかと、優しい闇に潜って祈りつづけている。
親愛に満ちたチェロの音色が、次第に落胆し、悲痛な嘆きへと変わっていく。
ぼくの心も沈んだ。水面に映る夜の色が濁り始めていた。
いつかこの小屋から、祝福の音を聴くことはできるのだろうか。
涙をこらえ、白みゆく空を仰いだ。ぼくの身体が目を覚ます。
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