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こうするしかなかった。他にどうすることもできなかった。私は走った。風がそよぎ、太陽が西へと傾きつつある草原を、ただひたすら走った。さよなら。さよなら。さよなら――頭の中で、何度も別れを告げながら。
目から水滴がこぼれる。頬を伝い、乾いた大地にほんの少しの潤いを与えてゆく。
あの家はとても暖かくて、居心地が良かった。5年も居ついたのは初めてのことだ。本当はもっとあの家にいたい。だからこそ、今ここで別れなくてはならない。あの家を形作るのは仲睦まじい夫婦と、その夫婦の愛情を一身に受けて育った可憐な少女だ。そこに私はいない。私はその家に訪れた5年間の夢なのだ。そうでなければならない。
メアリーは10年後にはきっと立派で綺麗な女性になっているだろう。それでも私は12歳の少女のままだ。人々が進んだ時間の分、堆く時間が堆積され、変容することを許されない12歳の少女の姿をした化石。それが私なのだ。
私はこの世界で普通の人として生きてゆくことができない。だからこの世界のものは深く愛してはいけないのだ。深く愛せば、その深さの分だけ傷を負う。ガラスの靴を履いて舞踏会に参加しても、時間がそれを続けることを許さない。
やがてさよならを言う時が来るとわかっていながら、なぜああもあの家を愛してしまったのだろう。分からないままただ走り続ける。走り続けているうちに、バス停が見えてきた。私は行き先も知らないバスに乗り、夕焼けに包まれたこの町を「さよなら」と声に出すことなく旅立った。
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