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 話し込んでいる内にすっかりぬるくなった梅ソーダで喉の渇きを癒やし、知らずに籠もっていたらしい肩の力を抜く。  ふと見遣った出窓は相変わらず暗いままで、カーテンで隔てられた向こう側では、夜の濃密な闇がまだ明けることを知らず広がっているのだろう。  起き抜けの暗い部屋で感じたほどの心細さは、今は薄れている。  母と心置きなく話せたことで、胸につっかえていたものが取れて、晴れやかな気分になったからだろうか。  でも、凪いだ水面のように穏やかな心持ちでも、その水面下では未だに消しされない心の淀みがしつこく漂っていた。  ――朔夜、お前が産まれた朔の夜、お母さんは命を落としかけた。    お前は、決してそのことを忘れてはならない。何故なら――  いつかの父の発言が、淀みの中から漏れいでる。  まるで、産まれたことが罪であるかのように説き、それを忘れさせまいと、忌まわしい夜の名を私に付けた父。  母に起きた事実は、どうにかして手を打てば避けられたとかいうような次元の話ではなく、誰のせいでもないのだと、最近になってやっと自分を許せるようになってきた。  それでも父の発言は、偶に悪夢のように思い起こされて、罪悪感を私にもたらす。 「ねえ、ママ。父さんは、ママが死にかけた原因である私を、もう許してはくれないのかしら」  一瞬、母の表情が強ばった。  怒られるのだろうか?  怒声を浴びせられるのを覚悟して身を竦めていると、突拍子もなく頬をむにりと抓られて、次いで抱き寄せられた。  あたたかい。それに、大好きな母のにおいがする。 「貴方は賢いのに、肝心な部分で頓珍漢なのよね、サク。  ねえ、サク。過去に私の身に起きたことが、貴方のせいでは決してないのは、もうわかっているわね。それを許すも許さないもないし、お父さんだって、貴方を責めることはただの一度もしていないわ」  幼い子ども相手のような柔らかな口調と諭し方は、さすがにいかがなものかと思ったけれど、母には強く逆らえない。 「でも、父さん、ママが死にかけたことを『忘れてはならない』って言ったのよ。私が十歳の頃、自分が産まれた時の様子を聞いた時に、そう確かに」  あの場には母もいて、話に衝撃を受けて泣く私の手を、母がずっと握って宥めてくれたのだ。 「そうね。私も覚えている。お父さんはなにかと言葉足らずな人だから、幼い貴方が誤解しないかとハラハラしていたの」  案の定だったわねえ。  最後に付け足した言葉だけ妙に間延びしていて、それだけ聞くと、なんだか長い間悩んでいたのが馬鹿らしく思えた。 「お父さんは、こう言いたかったのよ。  私が命を懸けてでも貴方を産んだのは、それだけ貴方の誕生を私達夫婦が強く望んだからに他ならないわ。  私達の大切な朔夜。その愛しい生を誇りなさい。そして、私達が貴方をとても大切に思っていることを、どうか忘れないで」  ああ、そうか。私が泣きじゃくっている間、父は本当に重要なことを教えてくれていたのだ。  だが―― 「あのむっつりな父さんが、そんな長尺の台詞、本当に喋った?」  寡黙で、口を開けば一言二言しか出てこない父が、そんなに喋る筈がない。 「……実際は、もっと短かったかな」  ほら、やっぱり。きっと、父の発言をしっかり聞いたとしても、解釈に困って、高確率で誤解していただろう。 (でも……そうか、私は、生まれてきてもよかったんだな)  私の存在を両親が強く望んでくれていた。  この生は誇れるものであり、大切に思われていることを忘れるな、と父が告げ、母によりこうして伝えられたことの幸せ。  私が呪いだと思っていたものは、実は祝福だったのだと、知ることのできた幸せ。  私は、なんて恵まれているのだろうか。
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