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 真夜中は勝手知ったる家の中でもなんだかいつもと表情が違う。なんというか、この空間から他人行儀な感じがひしひしと漂っているようだ。  家族が寝静まり、人の気配が僅かにしか感じられないから、それが違和感の素となっているのかもしれない。  居間の照明を点けて、奥に連なる台所に向かう。  当たり前だが、暗い台所に料理好きの母や弟の姿はなく、綺麗に片付いたシンクやコンロを見ても、夕方そこの前に確かにいた二人の気配はあまり感じられなかった。  この物寂しい雰囲気は、あまり好ましくない。さっさと用を済ませよう。  飲み物を得ようと冷蔵庫の戸開け、中を物色する。  喉を潤せるものならなんでもいい。そう思っていたが、ドアポケットにいいものを見つけた。  それは、樹液を思わせる濃い琥珀色の液体で満たされた瓶。  貼り付けられたラベルを確認せずとも、これがなんなのか一目でわかる。 「梅シロップ! これ飲もう」  今年の初夏、我が家の庭で採れた梅の実で作った、夏のご馳走だ。  嬉々として冷蔵庫から瓶と炭酸水を取り出した。  母の作る梅シロップは、クリーム色の甜菜糖を使う。  故に、シロップの色が、透明な氷砂糖で作るそれと比べて、断然濃い。  そして、濃いのは色だけではない。  瓶の蓋を開けた瞬間、ふくよかな梅の香が辺りに漂い、思わず恍惚のため息を吐いた。  芳醇なその匂いは、初夏になると風に乗って漂う梅の香とは少し異なる。  その秘密も、甜菜糖にあった。  精製されて雑味を除いた氷砂糖では得られない、甜菜糖ならではのコクのある風味が、芳醇な梅の香に奥行きを与えるのだ。  試しに、グラスに少量のシロップを取り、舐める。  トロリとした梅シロップは、とんでもない量の砂糖を使っているにも関わらず、驚くほどに酸っぱい。  梅の芳醇な匂いにうっとりし、強い酸味に口を窄める内に、ふと気付く。  目覚めてから先程までに感じていた心細さや空虚感は嘘のように薄れていた。 「こんな夜中に、一人でいいもの飲もうとしているのは、誰かなー?」  グラスに入れた梅シロップを炭酸水で割っていると、起き抜けの母が居間にやってくる。  眠いのだろう。こちらに向かって来る母の動きはひどく緩慢で、ともすれば、歩きながら眠ってしまいそうだ。 「ごめん、物音で起こしちゃった?」 「ううん、喉が渇いて起きただけよ」 「なに飲む? 持ってくから、座ってて」 「じゃあ、お水をくださいな。ありがとね、サク」  母は欠伸混じりに窓辺のソファに腰を下ろし、傍らのカーテンを捲る。  分厚い遮光性のカーテンの向こうから、うっそりとした闇がこちらを覗いていた。 「あら? 今日って、新月なのね」  背もたれに寄り掛かって天を仰ぐ母からは、私のように新月の夜だからといって気落ちする気配は微塵も感じられない。  それどころか、「そっか、今夜はサクの日かー」なんて笑ってみせる。  私が、新月の夜が苦手なのも、自分の名にコンプレックスを抱いているのも、母は知らない。……知らなくていい。 「寝惚けてる?」 「うん。かもね」  暢気なものだ、と二人分の飲み物を手に、ソファまで運んでいると、その道すがら、出窓でチラリと輝くものが視界に入る。  暗がりにひっそりと存在する光は、夜空に浮かぶちっぽけな星を彷彿とさせた。 (なにかしら?)  突然視界に飛び込んだ光の正体を探るべく、出窓を注視する。  対象はあっけなく見つかった。  家族の誰かが置いたのだろう。薄暗い出窓の隅で、青いブレスレットがもの寂しげにこちらを見上げていた。
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