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 空は青く澄み渡り、初夏の到来を告げる輪郭のはっきりとした白い雲が、山の向こうに膨らんでいた。毎年のように異常気象が謳われ、五月だというのに気温は30度を超えている。だがまだ今日は心地好い陽気だと、奥(おき)菜(な)卓(すぐる)は感じていた。  「あらぁ、今日もお爺ちゃんとお散歩?太一(たいち)くんは幸せねぇ」  ワン!という声を発して、柴犬の太一はいつも可愛がってくれる近所のおばさんに挨拶を返した。飼い主である卓が一言二言、その顔馴染みと会話するのも、太一にとっては日常の平和な風景だった。  太一が大好きな、公園の噴水はもう目と鼻の先だ。本当なら催促するように卓を引っ張って、水飲み場へと向かいたい。けれど太一も12歳、老犬となり、いささか活動力は落ちてきたようだ。主人とおばさんの話が終わるのを行儀よく待っていた。  いや、それだけではないのかも知れない。  「じゃあ僕はそろそろこれで。行くぞ、太一」  そう言って、卓は手元のスイッチを『前進』に入れた。  およそ一年前から、彼は電動車椅子に頼る生活を強いられるようになった。賢い太一は、そんな主人のことをよく分かっており、我儘を言って無理をさせまいと、我慢することを覚えたのだ。  ゴールデンウィークが終わり、少し気の早いニイニイゼミの声がする。自分が生まれて、約75年。今も昔も夏というのは変わらない。暑くて過ごしにくいのに、何故か終わると寂しくもある。夏の前がいちばん好きだ。卓はしみじみそう思った。  公園の砂が、優しい風に煽られて埃のように舞う。子供たちの歓声。テレビゲームやスマートフォンの普及で、すっかり競技者数は減ってしまったが、野球に興じる少年を見守るのも、卓の密かな趣味だった。誰かがツーベースヒットを放ったようで、甲高い声が響き渡った。  反対方向に目をやると、せせらぎの音が聞こえてきそうな清流がある。区画整理やマンション開発の憂き目にも耐え、この地域の水源を結ぶ水路として、古くからこの辺りを流れている小川だった。幅も狭く、決して大きな河川ではないが、その澄んだ水の美しさは、毎年ホタルを呼び寄せる。不自由な体になる前は、何度も足を運んだものだ。
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