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 「暑くなるのいやだなぁ。予定日は8月だし、私もしっかり食べて栄養つけないとね」 「俺の分もお浸し食う?それかカロリーメイトでも買ってこようか」 「カロリーつけてどうすんのよー。ただでさえ妊娠太りしてるんだからぁ」  結依は少しむくれて見せた。賢二がはにかんでくれたので、彼女は満足だった。自然と彼の手を取って、自分のお腹を触らせた。  「時々蹴るんだよ。命…、ここにちゃんとあるの」  賢二の掌は優しくて大きくて、温かかった。その手は家族三人をこれからずっと守っていく、強く逞しいものだった。  19時になり、毎週何とはなしに点けているバラエティ番組が始まった。タレントや芸人がパネラーとなって回答する、よくあるクイズ番組だった。最近では勉学の知識がないと芸能界で生き残れないらしい。大変なお仕事だな、と結依は思った。もっとも、それほど真剣に見ている訳ではなかったが。  身重の妻を気遣って、ということではないが、いつものように洗い物をしてくれている賢二の方を見た。広い背中だ。部屋着は結依が用意したラフなシャツを着てくれている。夫は衣類にそれほど頓着があるタイプではないが、自分の見繕った物を身に付けてくれると、何とも言えず嬉しいものだ。  結依はまたお腹に手をやった。ちゃんと数えたことはないが、一日で果たしてどれくらい『赤ちゃん』を撫でているだろう。命の尊さは親や教師が教えてくれるものではなく、まだ生まれていない自分の子供が、こうやって母になっていく未来のために教えてくれるものなのかも知れない。  「あ、また蹴った…」  食器に付いた泡を落とそうと、賢二が水流を強めている。赤ん坊の動きを彼に伝えたくて少し大きな独り言を呟いたが、その声はどうやら届かなかったらしい。  「ねぇ、聞こえてる?」  今度はもうちょっと声を張り、賢二に呼び掛けた。まだ彼は気付かない。悪戯心が芽生えた結依は、立ち上がってキッチンの彼に近づいた。見通しの良いダイニングキッチンは、彼女のお気に入りの仕様になっている。  「ねぇ…、…ねえ」  もしかしたらわざと、水の音に負けるような声音で話し掛けているのかも知れない。こっそり彼の背中に歩み寄って、引き寄せられるように彼女は彼の腰に手を添えた。ようやく気付いた賢二が、箸を洗う手を止めた。
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