或る時代、冬の音乃木町。

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 真夜中は思った以上に騒がしい。だが、嵐の中に飛び込まなければ静かだ。人から離れてさえいれば……男が、みんなが使っている黒色の使い捨てマスクで隠しながら呟いた誰かの言葉は誰も聞くことがなかった。街ゆく人もみんな透明で、誰もが何も考えずに、ただ流されるままにそれぞれがぼんやりと向かう道を、透明なクラゲたちが大海原をユラリユラリと力なく漂うように、人々もまた、透明であろうと必死になって漂っていたからだ。そんな街で、自身もまた透明な人の子のうちの一人にすぎない男のことなど、誰も、見向きも、言葉を受信することも、するはずがなかった。♪色を付けることは万死に値 色あるやつは今すぐ天誅! そんな歌を流行りの女性アイドルが電光掲示板の中で歌っていた。  男は泡のような唾を吐いて、山を登り、街はずれの丘に向かった。  下賤な街の光なんかより、ずっと高貴な月の光のほうが美しい。よくよく目を凝らせば月の表面に刻まれたクレーターすらも見えるのは、男の目がとてもいいからだけでなく、男が今いるのが小高い丘になっていることと、季節が冬だからである。いくら男でも夏ならクレーター一つ一つまでは見えなかっただろう。月が満月だから、あまり星は見えない。土色の丘を切り裂いているのは禿桜の影。樹齢数百年と噂されるこの木がある丘の上は、毎年春には大量の桜吹雪を吹かせる。それ目当てにやってくる女と男が、何も感じない、何色でもない心で、必死に囁く「綺麗だ、すごく綺麗だ……このお弁当君が作ったのかい? やっぱり君のほうが綺麗だ。エッチしよう、そうしよう」     
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