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扉を開けると真っ先に目に入ったのは、テーブルに顔を伏せて眠る、身重の妻だった。その顔は青白く、眉間に皺が寄っている。
彼女の姿を目に入れた途端、男の中から上司や会社、社会そのものに対する悪感情がすっと消え、ただただ愛しいという気持ちだけが湧き上がってきた。――そうだ。なんのために俺は働いているんだ。彼女を、そして生まれてくる子供を養うためだ。そのためなら、いくらでも頑張れる。
男は先ほどとは打って変わって足音を殺しながら歩く。妻の眠るテーブルの上には、ラップのかけられた夕飯があった。それも二人分。きっと、一緒に食べようと待っていてくれたのだろう。連絡も入れていなかったから、たいそう心配をかけたに違いない。申し訳なくて、労わるように彼女の頭を撫でた。
昔はサラサラだった髪は、今は少し手触りが違う。サラリーマンの薄給だけで色々やりくりしているのだ。あまり手入れができていないのだろう。大変なのは男だけではない。
しばらく頭を撫でて見つめていると、彼女がくぐもった声をあげた。起こしてしまったか、と思ってビクビクしていると、それ以降はなんの反応もない。どうやら杞憂だったよう。ほっと吐息をつき、彼女の髪をもう一度撫で、頬に唇を落とした。そして一旦離れてテレビを消してから戻ると、彼女の肩を優しく叩き、起こしにかかった。
会社をクビになったと伝えたら、こんなときに、と怒られるかもしれない。これからどうすればいいの、と嘆くかもしれない。それでも落ち着けばきっと、彼女は笑って言うだろう。――一緒に乗り越えましょう、と。そういう性格だ。だったら俺も頑張らないと。今は人生の真夜中。それならきっと、明けるときがくるはずだ。
――妻のまぶたが、ゆるりと押し上がった。
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