Episode.0

1/7
1417人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ

Episode.0

「やあ、今仕事終わり?」  カフェでのアルバイトを終えた(るい)がカウンターの外に出た瞬間、待ち構えていたかのようなタイミングで現れたこの男――アレックスに、類は胡乱な目を向けた。  アッシュブロンドの髪をビジネスマンらしく後ろに撫でつけているが、青みがかった灰色の目で甘く微笑む姿は到底〝普通のビジネスマン〟には見えない。  それもそのはず。  彼は有名ブランドの広告塔を務めたこともある元モデルで、アメリカ中に店舗を展開している老舗デパートチェーン〈アルビーズ〉を運営する、エルメスナショナルエンタープライズの御曹司さまである。  一八〇センチ半ばのすらりとした長身に、ベージュのトレンチコートを野暮ったくならずに颯爽と着こなす姿は流石といったところ。男盛りの三十代。モデルを辞めた今も、アレックス・ローウェル・エルメスは社交界の華で、店の歩く広告塔のような存在だ。 「俺としたことが、連絡先を交換するのをすっかり忘れていたんだ。すれ違いにならなくてよかったよ」と、アレックスは如才なく微笑んだ。 「……すれ違いになって、大いに結構だったんですけど」 「そんなつれないことを言わないでくれよ。約束したじゃないか。きみにとっても、悪くない話だろ?」  類の素っ気ない口調にも、アレックスはまったくこたえる様子がない。 「さあ、まずきみの部屋に寄って必要な荷物を取ってこよう。そのあと、これから一週間、俺たちが一緒に過ごす家に案内するよ」  アレックスは親しげに類の肩を抱き、店の外に向かった。  その瞬間、彼の香水だろうか。ふわりと甘くセクシーな香りが類の鼻腔をくすぐり、思わずギクリとしてしまう。  ――あの日(・・・)も一晩中、この香りがしていた。  一週間前の自身の軽率な行動を苦々しく思う……が、心底後悔しているかと言われると、実際はそうでもない。  アレ(・・)は、今思い返しても素晴らしい経験だった。  〝ハジメテ〟に彼ほどふさわしい相手もそうそういない。おまけに本業である絵の仕事まで与えてくれるのだから、もう救世主と言ってもいいだろう。  素直に喜べないのは、それが『彼の家のゲストルームの壁画』の仕事で、それも『一週間泊まり込み』というおまけ付きだからだ。  アレックスはあの晩も――そして今も――一貫して飄々とした態度だ。しかし類の方はそうもいかない。現に今だって、ただ肩を抱かれただけで――彼の香水の匂いを間近に感じただけで、どうにかなってしまいそうだというのに。  しかしこうして迎えに来られてしまっては観念するしかない。  ベッドの上での口約束とはいえ、約束は約束だ。そしてその口約束に、類はどこか期待しながらも、彼からの連絡がないことに密かに傷付いていたのだ。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!