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「棗────」
不意に彼に呼ばれ顔を上げると、その瞳は真っ直ぐに俺を見詰めていた。どこか狂おしそうに、眉根を寄せて。
「ロシアに帰らなくてはならない事になったのだ」
余りにも唐突な報告に、思考は追い付いてはいかなくて。サーシャの伸ばした指先が頬に触れた瞬間、訳も分からず小さな震えが起きた。
「君を、連れては行けない」
それがどう言う事か、停止した脳を無理矢理に働かせ考える。サーシャがロシアに帰る。そして、俺は連れていけない────。
「この関係は、終わりって事?」
「いいや。君はこの日本で、私の帰りを待っていてくれればいい」
サーシャの伝えたい事がわからずに、俺は彼を真似るよう眉を顰めた。
「……どう言う事?」
「今まで通りだが、会う時間が減るだけの事だ」
漸く納得がいった。それは、俺にしてみれば特に困る事ではない。
けれど、たったひとりでこの家に毎日いたのでは、俺はきっと廃人になるだろう。そんな未来は目に見えていた。
「サーシャ、仕事をしても良い?」
自分でも驚く程予想外な提案にも、彼は優しく微笑むばかり。
「好きにすると良い」
どうしてもこれと言う何かをしたい訳ではなくて、だが、とにかく何かが必要な気がしていた。それはこれから考えて行ってもいい。時間だけは誰よりもあるのだから。
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