第一章 『希来里』

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「何故だ!」  早朝、正武家次代様として敬られる玉彦の叫びが母屋に響いた。  私はそれをお手洗いの中で座りながら聞いている。  人がお手洗いに入っているのにその前で叫ぶ玉彦に対してイラッとしながらも、私は溜息をつく。  どんな時でも冷静で的確な判断を下すが信条の正武家の惣領息子がどうしてお手洗い前で叫ぶのよ。 「あのさ、ちょっとどっかに行っててくれない?」 「何故だ……」 「とにかく部屋に戻ってて。デリカシーが無さ過ぎ」 「わかった……。無理せずに戻るのだぞ……」  私は返事をせずにドアを蹴ると、玉彦のしょんぼりとした足音が遠ざかっていく。  何故だって、私の方が訊きたいわよ。  四月に当主の澄彦さんから有給休暇を勝ち取った私たちは、六月の玉彦の誕生日に合わせて十日間旅行へと出た。  二人で話し合った結果、無理に遠出はせず、なんとこの五村を廻る旅にした。  玉彦を水先案内として正武家所縁の地を廻り、夜は村の宿に泊まる。  正武家の次代夫婦が五村を廻るという異例の事態に、私たちを出迎える村々の人たちはお祭り騒ぎになっていた。  流石イベントが少ない田舎だと思う。  そして実は。  私たちの旅の始まりは、正武家の裏門から始めた。
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