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谷川指導棋士の突き上げた飛車。その矛先を見つめる吉岡。王将との間に置いたわけでもない。自分は、王手をしているのに……。
パチン……。パチン……。将棋の駒を指す音が響く教室の中、時が過ぎる。
「どうした? いつもと動きが違うな。水嶋」
谷川指導棋士は、動揺する吉岡を無視して、隣で対局をしていた水嶋に語りかける。
水嶋は、吉岡と同い年の高校一年生。無口で黒縁メガネをかけた真面目そうな学生。キリリとした眉毛の精悍な顔立ちの学生だが、顎が割れている。
中学時代にアマチュアの大会で優勝を重ね、今は六級の実力を持つ、水嶋。地味に成績をあげていく彼に、谷川指導棋士も一目置いている。
うつむきながら盤上を凝視していた吉岡が、チラリと水嶋の方を見る。
それに気づいた水嶋も、吉岡の方を見る。
吉岡は、水嶋と目が合うと、気まずそうな表情で、ぐっと唇を噛み締め、直ぐに盤上に目を落とした。
谷川指導棋士は、動きを見せない吉岡を一瞥し、その場で立ち上がる。そして、腰をかがめ、隣の水嶋の指し手をじっくりと眺める。
「ふん。渡部の手を真似たか……。そういえば、あいつは今日も来ていないのか? 」
水嶋は熟考しているのか、その言葉が耳に入らないかのように真剣に盤上を見つめている。
一方隣で、先輩である渡部の名前を聞いた吉岡。胸の鼓動が早くなるのを感じながら、膝に置いた手をじっと見つめる。
その吉岡の様子を横目でちらりと見る谷川指導棋士。再び水嶋の指し手に視線を戻す。
「ふん。つまらんな……」
谷川指導棋士は、吐き捨てるように言うと、今度は教室全体を見渡して腰を伸ばす。
「もうこんな時間だ。どうだ、皆でうまいものでも食いに行くか?」
パチン……。パチン……。将棋の駒を指す音が響く教室の中、時が過ぎる。
「くくく……。俺も若い頃はそうだった」
そう言って谷川指導棋士は、教室から出て行った。
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