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「今の可南子さんは、ボッティチェリのフローラみたいだ」
「・・・プリマヴェーラの?」
「ああ。中央向かって右の、歩き出しているほう」
あの絵は、中心のヴィーナスよりもフローラの方が活き活きとしていて美しいと思う。
「それは、光栄ね・・・」
ふふふ、と、肩をすくめ、くしゃりと頬を崩す。
その薄く紅を載せた唇から、花が今にもこぼれ出しそうだ。
「・・・お別れに、来たの」
雪の降り続く、さらさらとした音に囲まれた中、互いの白い息が立ち上る。
「・・・ああ、うん」
「驚かないのね?」
「いや、驚いているけど・・・」
細い頤の下に現われた白くて細い首筋が気になり、手にしていたマフラーを彼女の首にゆっくり巻いた。
「これだけ変わっていたら、それしかないかなと」
「それもそうか」
綺麗な水色の入ったマフラーに鼻を埋めて、くふ、と喉をならした。
そういえば、このマフラーは彼女がヨーロッパでの学会出席の折に買ってきてくれた物だった。
「あのね。ここを辞めて、ニューヨークへ行くの」
「・・・え?」
「彼がどうしても一緒にいてくれと言うから」
「・・・ごめん。話がわからない。彼って誰のこと?」
「あ、ごめんなさい」
時々、彼女は結論から話をする。
父親の駐在について幼少期をヨーロッパで暮したせいか、会話の運びが日本人と違う。
その癖だけは変わらないようだ。
「先月の半ばにバレエダンサーが搬送されてきたの、知ってる?」
「ああ、後で聞いたけど・・・。右膝前十字靭帯損傷・・・。確かアメリカのバレエカンパニーのダンサーが公演中に怪我をしたって・・・。まさか」
「そう。そのまさか」
「いや、ちょっとまって、可南子さん」
「ユーリ・サバノフ。ソリストなの。年は確か10歳近く下かしらね」
まるで何度も諳んじてきたかのようにとうとうと語る。
「だけど、愛してますって言われたの。薄いピンクの薔薇を腕いっぱいに抱えて」
「・・・薔薇」
「そう、薔薇。彼から貰うとね、とてもとても嬉しかったの」
昔、彼女が一番苦手だとこぼしていた花だ。
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