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第三章 お初と付喪神
車は夕焼け空に別れを告げた、夜の空を彩る星々の下で停車しました。この暗い森の僅かな光源となっていた赤い木漏れ日も、既に薄暗い月明かりへと成り代わっている頃合いです。
車が停車するや否や、天狐さんは後部座席の方へと振り向いて言いました。
「ここがワシらの滞在しておる宿、“心紡ぎの宿”じゃ」
ところが辺りを一通り車内から見回してみても、宿どころか建物すら周辺には一つとしてありません。更には建物以外でも、目に映る景色と言えばやけに畝った木々が生い茂っているだけです。
いや、木しか無いと言うのも少し嘘になりますね。何故なら視線の先には一箇所だけ、木すらも生えていない更地の空間が存在していますから。
とは言え一体この場所の何処に、私達が一夜を明かせるような旅館があるんでしょうか。
もしかしてまた騙されちゃったのかな……。そんな疑いの念を抱き始めていた頃合い、その疑いの念を一瞬にして吹き飛ばす事が起こりました。
「ええっ!? 何ですか、これ!」
何が起こったのか説明すると、私達が車から降りた途端、さっきまで何も無いと思っていた場所に、柔らかな光を携えた建物が浮かび上がってきたのです。
ええ、この状況を適切に述べるには「浮かび上がってきた」に勝る言葉は無いでしょう。
初めは目の錯覚かとも思いました。何せこの木造の建物は、初めからそこには無かったわけですからね。
けれども私の目には、そして轆轤首さんにもその光景は、ハッキリと映り込んでいました。それもテレビで観た事があるような、如何にも旅館と言った和の造りをした建物の姿が。
天狐さんに散々な扱いを受けていた加胡川さんは、ようやく元気を取り戻した様子で、私達の前で起こった怪現象の説明をしてくれました。
「この宿は妖怪専用の宿でね、普段は人間が迷い込んでこないように建物自体を隠しているんだよ」
話を聞いていて思った事が一つあります。それはそもそもこんな辺鄙な森へ、人間なんて迷い込んでくるのかって事です。
けど万が一、何も知らない人間がこの森へと迷い込んで来る事があるのなら、確かにこの仕様は必須と言えるのかも知れません。
「にしてもよ、結構しっかりとしたタテモンじゃねぇか」
貴方には今の光景が見えていなかったんですか、とでも問い質したいくらいに轆轤首さんは冷静な反応を示していました。
まぁ流石は妖怪、こんな事で驚いていては妖怪としても失格みたいな感じですね。そろそろ私も皆さんみたいに落ち着かなきゃなぁ。
扉を開けて中に入ると、そこには煌びやかな光を放つ豪勢な景観が広がっていました。玄関の中心にはそれはもう綺麗な生け花、そして壁にはこれまた見事な景色の絵が飾られていました。
この景色の絵はおそらく、私達も既に目にしている大歩危の渓谷を描いているのでしょうか。繊細な筆使いは素人の私から見ても、凄いの一言では片付けられない程に美しかったです。
「お帰りなさいませ天狐様、地狐様」
耳に残るような甲高い声と共に、玄関の曲がり角から一人の女性が現れました。お上品な雰囲気もさることながら、着物もよく似合われている女性です。
しかしよく見ると、彼女の頭上には小さな動物の耳が付いていました。なのでこの方も、どうやら人間ではなく妖怪みたいです。もしイメージが思い浮かばないのであれば、加胡川さんに付いている狐の耳を丸くしたと思って下さい。
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