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風が哭いた。
小さく切るような音に、胸を突かれた。
風だと思い込んだ音は睦自身が空気を肺に吸い込んだ音に相違なかった。
目の前に深緑の甘い闇が戻ってくる。鼻腔を突くのは燻る肉の冷える臭い。
音の向こうには、睦と同じ、小物行商姿の男が一人、くすんだ布切れにくるまれた球体を大事そうに抱えている。
ーーーまた。
左目の奥が痛む。目の前に広がっていた阿鼻叫喚地獄がまだ脳裏にこびりついている。
男の目は何事も気にならないかのようにすいと睦から離される。
何事にも関心を示さなくなったような無感動さで、男は腕に抱いた球体をそっと撫で、睦から視線を離した。
くすんだ布切れの隙間から、一房、白に近い金糸の髪が男の腕に垂れた。よく日に焼け、小物行商にしては逞しすぎる腕に、その色は、その質感は、見事なまでの異質さと、均整を見せた。
後ろを向いた男の葛籠に、鈴はない。
熊以上に、音を出すことを嫌う。
彼の記憶。睦の呑み込んだもの。
「貴方は小物行商ですか」
喉を鳴らして溜飲する。その合間で声を出す。
男は再び、睦を見返る。昏い昏い闇を覗き込んだような眼の色だ。生き物の気はなく、唇は乾いている。
「土蜘蛛狩り」
男のひび割れた口から零れたのは問いへの答えか、それともこの惨状に対する説明だったのかわからない。
男は腕に垂れた一房の髪を愛おしげに布の中へ仕舞い込んだ。
「土蜘蛛は、人に害成し、人を喰う」
だから退治せねばならぬのだ。
男の声は人の声なのか、風の声なのか判別の付きにくいものだった。
木々の深い方を向いたままで男は小さく唇を開く。一片残った陽光は山の向こうへ消えようとしていた。
「人に害成す土蜘蛛など、いませんよ」
睦は背に負うた行商箱を負い直して男に言った。
りん、
と、鈴が鳴る。
男は睦に対峙し、癖の強い髪の合間から凝とその顔を見ていた。
「私は居もしないもののために遣わされたのか」
じんわりと、黒い瞳に赤い憎しみが燻っている。
「居もしない物のために、彼は死んだのか」
一陣の風に森が啼く。男の髪がうねって逆巻く。
怒りの色が鈍色に滾って睦の前、足元を侵食する。
「『平家物語』や『土蜘蛛絵巻』に見られる類の土蜘蛛なら、いませんよ」
ザア、と風が啼く。
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