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男の眸はあたかも宵闇の黒さが一個の塊になったようだった。暗黒は怒気を孕んでいて滑った艶消しの中に鎮座している。
「土蜘蛛は、いない」
風が啼く。
おぉ、おぉ、と、声を嗄らして啼く。
人の声のように啼く。
「居ないなら、何故、彼は斯様な仕打ちを受けた」
男は爛れた唇から声を漏らす。
黒い口中から呪詛に塗れた言葉が溢れだす。
何故と問う声は罵倒に変わり罵倒は耳を塞ぎたくなるような奇声に変わる。
「赦せない赦せない赦せない赦せない」
男の黒目が大きくなる。周囲の闇を呑んで異形の態になる。
こちらを見据えたままで、彼は球体を地にそっと置いた。
布切れが風に靡く。
「彼が『土蜘蛛』だったからです」
睦の言葉に転げそうなほどに目が開かれる。獣の形相で、男は睦に対峙した。
鉄と鉄のぶつかり合う音がする。
男の獲物が、睦の鉄籠手を削る。
「彼は土蜘蛛でした、」
男の力は強い。
恐らく、睦が余計なことを言わなければ、彼はまた別の『狩場』へ向かったはずだ。
睦を無視して、また、山奥の何の咎もない村へ移っていったはずだ。
「土蜘蛛は居ないといった」
食いしばった歯の隙間から獣の唸るような声がする。
恨みに塗れた男は人間を、この国の人種を皆滅ぼすまではきっと満足しないだろう。
脳裏に流れ込んできた記憶が、睦の邪魔をする。
男の見た、『土蜘蛛』の美しさが、この男を許せと、逃がせとそう言う。
『土蜘蛛』はただの美しい人だった。白い肌に金糸の髪、脛から先の長い、背の高い、深い青色の眸をした。
ただ、ただ無垢な青年だった。
男の好意にはにかみながら、ただ静かに、閉じられたこの国で息を潜めているだけの。
別段、男の行為を咎めるような立場にあるわけでもない。しかし、見て仕舞った。見えて仕舞った。
「化け物と言う意味での土蜘蛛はいません。彼は異文化を心棒する本来の意味の『土蜘蛛』でした」
眼前に迫った鈍色の刃は人を切りつけられるような物には見えなかった。
ところどころ錆びて鉄の匂いがする。
鉄籠手を押しやり、男を跳ねのける。
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