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後ろ姿さえも、美しい人だ。
深山の生活故だろう、長く垂れた髪は緩く団子にされ私が売った簪で留められている。絹糸のような髪は街中の女を連想させたが、けばけばしい臭気や油で出した目に痛いようなテカりがなく、好ましい。
視線に気がついたらしい彼が振り返るとき、その白い肌に留め損ねた一房が垂れる。
軽く払う手が、柔らかく羽ばたく。
「夕餉ですか」
私が問うと彼は細い顎を引き、淡く唇を弧にした。
なんの屈託もない、淡い微笑だった。
味噌汁と、少しの漬物、粟飯、岩魚の焼いたのが並んだ膳が私の前に用意される。
銚子には私の持参した酒が燗になっている。確かに少し肌寒い。
彼は土間の行燈を座敷にあげる。
私の元にまでその明かりは届くようになり、下から照らされた彼の顔は一層陰影を増して幽玄を備える。
部屋の角に置かれた行燈と合わせて、光源は二つになる。
野菜は小さな茅葺きの外にある些細な畑から収穫したものだろう。
軒先には大根と、川魚が吊るされている。
倹しやかな暮らしだ。
裏手の川から岩魚を獲り、その日には焼いて、余せば塩漬けにしたり、天日に干したりする。そうすれば食べるものに事欠くことはないそうだ。
私は葛籠を引寄せ、その存在を確認して、食事を前にした。
彼は、何も知らない。
二つの行燈をもってしても明きはふたりの間、小範囲である。
唇の前で合掌のように手を組み、口の中で言葉を転がす。私にはそれが何を意味しているのか分からない。
判らないが、温かな橙の薄明かりに陰影を深めた顔は、ただ只管に美しかった。
克明な鼻梁の高さも、眼球に持ち上げられた薄い瞼も、艶めた睫毛の反り返ったのも、すべてが緻密に計算されたように美しく、正しい所作で食物を口に運ぶ様は淫靡ですらあった。
口の端に、触れる。
彼は視線をあげて私をみた。
「米粒が付いていました」
平然と嘘をつき、私は彼に触れる大義を翳した。彼はその嘘に気がついているのか、居ないのか頬を少し紅色にしてはにかんだ。
「ここは時計がないのが少し不便ですね」
私は取り繕って多弁になり、彼は黙してはにかんだまま、自分の頬に触れていた。
伏した睫毛が震えながら光を反射して輝く。
着流しの衿から白い肌が覗いていた。
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