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#5 無知
あの日以来、夕焼けは執念深く残火を垂れ流す不気味な歪んだ円に見えた。吹く風を、心地よい涼しさと感じることも無くなってしまい、ただ寒さが深まり、所謂、冬がやってきた。衣替えも終わり、教室にはブレザーの暗い濃紺の人影が整然と並んでいた。掌の傷は順調に治ったが、まだら模様の跡が残った。
羽多ちゃんは翌日には機嫌が直っていて、テストの結果が散々なのも笑い飛ばされた。あれから特に変わりない日常が続いていた。滞りなく、冬がやって来ようとしていた。変わりがないということは良いことばかりではなく、僕は日に日に居眠りが多くなった。去年と同じであれば、これから段々と、起きていられる時間が少なくなっていく前兆だった。羽多ちゃんは春の頃のように後ろからつついたりせず、静かに見守っていてくれた。
みるみるうちに、会話らしい会話をしなくなっていった。休み時間も、登下校中も寝てしまうからだ。羽多ちゃんが口火を切ったのは、ある日の放課後に配られた進路希望調査書についてのことだった。
「夏野って志望大学あるの?」
「…羽多ちゃんはあるの?」
「大体みんなあると思う。ないの?」
「うん」
今日の記憶も断片的にしか残っていない上、まだぼんやりと眠気を引きずったまま、五つの空欄を見つめた。丁寧に、第五希望まで用意されているのに、僕には第一希望さえなかった。進路なんて、考えた事もなかった。
「何か困ったことがあれば、電話してよね」
「電話しちゃダメなんだよ」
「そうだったね、じゃあメールで」
羽多ちゃんがいつも降りる駅に着いたが、最近の僕は改札まで見送るどころか立つ事も億劫になっていた。彼女も何も言わず、挨拶だけして別れた。この駅ではぞろぞろと人が降りて行き、途端に静かになる。地下に潜った線路の真っ暗な窓の外を見て何も感じなかったが本能的にゾッとした。突然、つらくなって、膝に置いた鞄に額を埋めているうちに、眠っていた。
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