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「夏野!どうだった?」
「うん、苦い顔してた」
「白紙で出したって本当?」
「うん」
短い階段を駆け下りてきて、踊り場で見た彼女の髪が揺れ、リボンが、スカートの裾が、晴天の空が磨りガラスの窓からふわりと差し込み、はらはらと淡い光の中に浮かんだり消えたりする。輪郭が消える。まるで夢の中の人みたいだ。今、顔を見たのは間違いだった。
「なんで相談してくれなかったの?」
「…ごめん。自分の中で、うまくまとまらなくて」
彼女は来年はいない。こんな風に気をかけてくれる人なんて他にいない。
「頭の中でまとまってなくても、とりあえず聞いてくれたら、いくらでも相談したのに」
「うん…別にいいかなって。そんな重要なことと思ってなかったんだ」
頭が重い。体が思うように動かない。自分の意思がないから、気力がないのだ。何もかも空っぽだと、思い知らされた。人にただ着いてきただけだ。
それが悪いことと一度も思ったことがなかった、こうして行き詰まるまでは。
「夏野、自分のことを蔑ろにしないで。何も知ろうとしないから、何も分からないのよ」
この季節でも暖かな光に包まれた校内随一の穴場なのに、爪先と指先が凍りついてしまいそうなほど冷え切っている。顔や心臓は引き攣り、とても苦しい。痛いところを突かれた。
僕には自分がない。羽多ちゃんから貰った名前も、このガサガサの指先で書くにはとても荷が重くなってしまった。肩書き、得意分野、学歴、夢。教室という箱の中で同じように育っているように見えて、僕だけがいつも置いていかれていた。
昼食も食べず、椅子に体を預けても尚石のように重い肩や腕を机に乗せ、次の授業が始まった。苦手な英語。この授業では一人ずつ、教科書の英文と翻訳を読み上げる。順番が回ってくる。予習はしてきたが、羽多ちゃんのチェックはしてもらっていない。この翻訳で合っているのだろうか。また出来損ないを露呈してしまうのか。今までとそれほど変わらない状況なのに、今までになかった恐怖がじわじわと広がっていった。空っぽで呑気なはずだった僕の頭の中に奇妙な渦がある。本当はずっとあったのかもしれない。ちゃんと向かい合った時には、背中に重いものがのっかって、喉も強張って声が出ず、目も開かなかった。
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