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自分の記憶がないのは、高校に入る前からだ。なぜこの学校を選んだのか、高校に入る前は何をしていたのか、一切謎だ。
僕は過去の情報が著しく欠けている。それゆえ、将来の希望を見させてくれない。当たり前のことだ。脆弱な地盤の上に将来像は立てられない。
まるであの街の、壊れた工場の煙突みたいだ。一人ポツンと立たされて、地盤は毒水に侵され、煙突としての機能はしていない。誰も何も言わないからただ形があるだけ。自らの役目に見放されて、過去は忘れ去られ、未来もない。
奇妙なほど白くて穏やかな空間で目を覚ました。保健室だ。ベッドの横には羽多ちゃんが椅子に座ってウトウトしている。
「羽多ちゃん」
「起きた。どう?体調」
「ごめんね、授業さぼらせちゃって」
「いいのよ。夏野、名指しされた瞬間気絶したみたいで、いつまでも返事ないから、もしかして私のことかと思っちゃったよ」
羽多ちゃんが笑うのにつられて、少し笑った。手首や膝に湿布や絆創膏が貼ってある。椅子から転げ落ちたのだろうか。意識がしっかりしてくると痛みが襲ってくる。
「運んでくれたの?」
「うん。夏野、軽くてびっくりしちゃった」
羽多ちゃんは、大きな瞳を潤ませて、こちらを真っ直ぐ見据えていた。
「また、今年もダメなのね」
「そうみたい…ごめんね」
一度意識を失うと、眠った後とは違い、脳がすっからかんになる。悲しみも、襲ってくるのはまだ先になる。進路、夢、もしかしらそれ以前の問題だ。混迷、冬の強い風、高い空、淡い光が僕の脳内を限りなく無に近い白に塗り替える。寒くて体が硬直する。
「とりあえず、今日はもう早退することになってる。荷物も持って来たよ。先生が夏野の親に電話かけたけど、繋がらなかったみたい…一人で帰れる?」
「うん」
「本当に大丈夫?」
ただでさえ石のような冷たい心を金槌で半分に割られたような、それほどの鈍い痛みと空隙を覚えた。その隙間の輪郭を、じわじわと描く汚い紫色の絶望。あの泥の色にそっくりな。残った心も焼け爛れていくような。そんなこと、説明したって、さすがに分かってはくれないだろう。
「大丈夫だよ」
冬に蝕まれ、日常を生きるための僕が、機能しなくなっていくという恐怖を。
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