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プロローグ(前)
苛立ちに任せて衝立を肘で突いたら、近くにあった花瓶が倒れてきた。咄嗟に右手で払うと壁にぶつかって割れた。私の拳から滴る鮮血を見て、帆乃香が小さく悲鳴をあげた。隣にいた千穂は飲んでいたミネラルウォーターのペットボトルを唇から離したところで固まった。
「白鳥さん、呼んでくるわ」
帆乃香が走りだし、その場には私と千穂だけが残った。
「……なにをやってんの、きみは」
普段から舌足らずな喋り方をする千穂はこんなときでも変わらない。緊張感なく響く声に、少しずつ気持ちが静かになってくる。
「あー、手を振らない」
千穂に言われて右手の動きを止める。椅子やテーブル、その上の資料やカタログに飛び散った血を千穂とともに目で追った。
ここは芸能事務所『クロムプロモーション』の一室である。今、私たちはファッション誌の担当者が現れるのを待っている。指定の時間は一時間前に過ぎていた。
「ほらほら、昌これ使って」
千穂から差し出されたタオルを受け取り拳に当てた。押さえた瞬間、鋭い痛みが走った。
「いっ、痛ぁ」
顔を歪めた。
「痛いのはあたりまえじゃん」
すかさず突っ込まれる。千穂はどこからかチリトリとホウキを持ってきて私の足先を払った。邪魔、の合図。片足ずつ退いて場所を譲った。破片がチリトリに集まった頃、廊下の向こうからばたばたと足音がやってきた。開けっぱなしのドアから飛び込んできたのはマネージャーの白鳥さんと、この部屋を少し前に退席していた実紗、白鳥さんを呼びに行った帆乃香だ。
「大丈夫?」
白鳥さんが駆け寄ってきた。その反応からこの件が不測の事故として扱われていることが分かり、遠慮気味に帆乃香を見た。帆乃香はいつものように私に視線を合わせない。その隣で実紗はやれやれ、という気持ちを綺麗な笑顔の下に隠している。
「昌、行くよ。実紗あとはよろしくね」
「了解です。昌、お大事にね」
「昌、がんばって!」
大袈裟な扱いにバツが悪くなる。花瓶は勝手に割れたわけではない。白鳥さん以外みんな、知っている。
地下駐車場までエレベーターで降り、白鳥さんの運転で事務所指定のクリニックへ向かった。診察案内の看板は内科だが小さな字で婦人科も付け加えられている。実際は耳鼻科も泌尿器科も精神科もやっているようだ。ないのは小児科ぐらいで、たのまれれば目の検査もするし、歯痛の鎮痛剤も出すし、皮膚の湿疹も診るらしい。
診察室では陰気な風貌の中年医師が、ずり落ちそうな眼鏡の奥から私を一瞥した。千穂から借りたタオルを剥がすと痛みは強くなった。消毒液を湿らせたガーゼが拳を叩く。
「っいつ」
思わず舌打ちが出た。無意識に引っ込めた手をぐいっと戻される。ぎゅっと目をつぶり治療が終わるのをひたすら待ち望む。
後悔はいつもあとからついてくる。
感情のままに“事”を起こしてしまうのは子供の頃から変わらない。怒の感情が振り切れたら最後、授業中でも休み時間でも手元にあるものを壊してしまう。私の手はいつも血だらけだった。周りが私の扱いに困るのは当然で、腫れ物に触るように、または機嫌を取るように、どうにか学校生活に馴染ませようと心を砕いてくれた。それでも私は誰にも心を開かなかった。いつしか周りから人はいなくなった。私は“透明人間”になった。
高校へは行っていない。
正確には、入学式に出席しそのまま不登校となり自主退学した。今年の夏、二学期が始まってすぐのことだ。
* *
「傷は残りませんか、先生」
医師は白鳥さんの懸念に鼻を鳴らした。大丈夫だという意味らしい。
「ありがとうございました」
立ち上がった私の肩に白鳥さんの手がぐっと乗った。そのまま倒されてお辞儀の格好になった。
「エネルギーの無駄遣いはほどほどにな」
ドアを閉める直前、カルテになにやら書き込みながら猫背の医師は言った。先に廊下へ出た白鳥さんには聞こえていない。私も聞こえないふりをした。
「昌、今日は帰りなさい。寮で安静にしていること」
駐車場を歩きながら、白鳥さんは事務所に連絡を取り始めた。これから始まるファッション誌の打ち合わせを私抜きで進める指示だった。
「――あの人たちが遅れなきゃこんなことにならなかったよ」
小声で吐き出した不満を白鳥さんは車のドアを開けるという行為によって軽く押しやった。
「時間を指定してきたのはあっちなのに、なんで遅れるわけ? うちの事務所、バカにされてんじゃないの」
乗り込んでまた言う。時間が経つにつれ、拳の痛みはじんじんと深くなった。
「そうかもしれないわね。でもあんたたち四人にとって、この仕事がチャンスであることに変わりはないわね」
車は事務所を通り越し駅へと向かっている。寮までは送ってくれないらしい。無名のタレントを、たかが右手の怪我ぐらいで優遇するほど白鳥さんも暇ではない。
「昌、先に言っておく。今日これから決まることは決定だから、ウダウダしないでやること。分かった?」
車を降りる寸前に念を押された。
「分かってる」
――分かっている。
言葉にしてから、心でも繰り返した。
私だって目に映るすべての人間が汚いと思うほど子供ではない。もう十六才だ。悪意や狡さを感じ取っても無視できるくらいには大人になったつもりだ。……感情のまま事を起こしたあとでは信憑性がないかもしれないけれど。
「これからしばらくは十八才でいられるんだから、今のうちに要領良く立ち回ることを覚えてちょうだい」
年齢詐称はこの世界ではよくあることらしい。私はプロフィール上、高校を卒業したばかりの十八才ということになっている。無論、昌という名も芸名だ。
「じゃあね。気をつけて帰るのよ」
白鳥さんと別れて駅の構内へ足を進めた。相変わらず混雑している。すれ違いざま負傷した右手に見知らぬ誰かのバッグがぶつかる。ズキッと痛みが走る。が、顔を歪めやり過ごした。
――視界のすべてに他人がいる街、東京。だからなのかもしれない。他人の言動に、表情に、腹の奥にいちいち立ち止まらなくなった。正確にはキリがない、ということなのだけど、それでも、我慢できる自分が“大人”になった証のような気がして私は安堵する。
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