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プロローグ(後)
芸能事務所『クロムプロモーション』の薙沢社長に声を掛けられたのは、まだ辛うじて高校生だった夏休みのことだ。姉のアルバイト先である湖畔の土産物屋からほど近い木陰で、暇を潰していたときだった。
社長はしばらく私を観察してから年はいくつ? と聞いてきた。私は渡された名刺に釘づけだった。社長の声などほとんど耳に入ってこなかった。
――芸能事務所って、歌手とかモデルとか女優を育てるところだよね。クロムプロモーションなんて聞いたことないけど、でも所在地は東京だし、業界では有名なのかな?
「興味ある?」
食い入るように名刺を見ていると社長は苦笑いで続けた。
「なんならうちにくるかい?」
「え」
私はようやく顔を上げて目の前の社長をじろじろと見た。中年には違いないけれど着崩したシャツやサングラス、オールバックの髪は、私の住む片田舎では珍しい。作業服を着た大人ばかりが目立つ町で、社長の身装や雰囲気は悪い意味ではなく年齢不詳だった。
「大学生?」
首を横に振った。
「社会人か。仕事はなにをしているの?」
仕事……?
頭の中で質問の意味を考えた。自分は高校生には見えていないのではないだろうか。というより未成年にさえ見えてないのではないか。
「十八。仕事はしてない」
咄嗟に嘘をついた。社長が口にした『うちにくるかい?』という言葉だけが頭の中でぐるぐると回っている。芸能人のほとんどはデビューのきっかけをスカウトだと言っている。たとえばこんな風に、突然声を掛けられたのではないだろうか。
「それは好都合。身辺整理が出来たらここに電話するといい」
社長は私の手にある名刺を顎で指した。そして口調と同じに軽く手をあげて去っていった。数歩進んだところで、思い出したように振り返った。
「おっと。きみの名前は?」
「山本亜美」
吠えるように言った。
「亜美、か。ちょっとイメージと違うな。あい、あや、あおい、あかり、――あきら。そうだな、どちらかといえばきみの雰囲気には『あきら』がしっくりくるな」
「あきら」
名前をなぞった。甘ったるい響きのする本名より、確かにおさまりがいい。
「じゃあ、東京で」
社長の背中をただ見送っていると、後方で姉が私を呼んだ。妹が知らない中年男性と話していることに気づき、アルバイト先の店主に断って連れ戻しに来たのだ。
「亜美、今の人誰?」
「なんか、これもらった」
名刺を見せた。姉は眉を寄せた。
「うまいこと言われても鵜呑みにしてついていったらだめなんだからね」
「……分かってるよ」
店に戻ると、こちらは年相応の中年店主が意味もなくにこにこしてきた。姉から『不登校の可哀想な妹』と聞かされているのか、店の隅で私がじっと座っていることに寛容だった。『どうだ、おじさんは若い子に理解があるだろう』と言いたげな自己満足の正義感が鼻につく。だが私が店主の問い掛けをことごとく無視しても、愛想笑いひとつ浮かべなくとも、『病んでいるなら仕方ないか』とあきらめてくれるので楽でもあった。
薄暗い店の中から眩しい空を見た。
夏の間だけたくさんの観光客を迎える湖畔の空は、そのことを許容するかのように低く鮮やかに青い。早足でやってくる冬には寂しさばかりを感じさせるのに、“ギャラリー”が多いと張り切って水面を反射させる。私はこの湖畔に来るたびに、『外面がいい』という言葉を当て嵌めてしまう。雪深い土地で暮らす地元の人間には静かな表情ばかりを見せて、余所者には陽射しに輝くきらきらとした湖水を惜しみなく見せる。さあさあ、みんなおいでよ。湖水浴にボート遊び、バーベキューにキャンプ、ウィンドサーフィン。なんでも好きなことをして遊んでいいんだよ。楽しいでしょ!
ひと夏の短いときにしかやってこない遠くの人間に媚を売ってはしゃぐ湖水は、夏の終わりとともに不機嫌になる。家の中で疲れた顔ばかりしている母と同じに。だから私はこの湖水が嫌いだった。
“特等席”に座り、また名刺を眺めた。気持ちはとっくに決まっていた。――夏休みが終わったら東京へ行く。そして“何者かになる”。
そこに根拠はなかったけれど、私がこの町を出る正当な理由にはなった。
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