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十六才ということはすぐにバレた。
置手紙ひとつで家を出てきたから、――ではなく、タレント事務所に提出するための書類に身分証明書を添付しなければならなかったからだ。私はそれを持っていなかった。
考えてみれば世の中は確認や証明で溢れている。保険証がなければ病気や怪我のときびっくりするくらいの医療費を払うことになるし、住民票がなければアパートも借りられない。もちろんスマホも買えない。
私の実年齢と家出を知った直後、社長の行動は素早かった。渋る私を連れて夕暮れに染まる湖のある町へと車を走らせた。家ではちょうど、私がいなくなったことで大騒ぎになっていた。そうして戻ってきた娘に安堵し、年齢不詳の見知らぬ男の説明にパニックを起こした。
「うちの子は未成年ですよ」
役場に勤めている生真面目な父が言う。
「亜美を引き取るって、あなた他人じゃないですか」
訪問販売で化粧品や下着を売っている母が言う。
「芸能界なんてそんな怖いところに、はいそうですか、と娘をあずける親がいますか」
両親は交互に薙沢社長を責め立てた。
「アルバイトもしたことのない子に何をさせるというんです」
「子供を親から引き離す権利があなたにあるんですか!」
予想した通りの、つまらない常識論や保守的な不安を振りかざす。――そうだ、こんなやりとりが目に浮かんだから、私は黙って家を出たんだ。
やり切れない茨のような怒りが私の内部から皮膚を貫いて体に巻き付いてきた。逃れたい! そう願うだけなのに私の『手』はいつも簡単に私から分離してしまう。社長の前に置かれた茶碗を掴む。中には手付かずの緑茶が入っている。私の右手から真横に放たれた茶碗は激しい音を立てて食器棚にぶつかり脇の襖をびちゃりと濡らした。父、母、姉、三人がバラバラに目を逸らした。私の暴力的な行為をなかったことにしたいのだ。いつものように。
転がった茶碗に母の手が伸びた。それを合図に皆が一致団結する。母が尻の向こうに茶碗を隠すと父は意味もなく暗い庭先へと視線を泳がせる。畳を拭く姉同様、急須に湯を注ぐ母も手際が良い。社長の前にはまた湯気の立った緑茶が置かれた。目の端に、唖然とする社長の表情が映り込んだ。
――またやったんだ、わたし。
後悔は、いつも過ぎてからやってくる。
「住む場所ですが、当社は寮を完備しております。男子禁制、所属タレントの年齢別に門限もあります。体調管理や食事は住み込みの寮母がします」
娘の愚行を見て見ぬ振りの家族に合わせたわけではないだろうが、社長はそれまでに受けた質問のひとつひとつに唐突に答えはじめた。父も母も先ほどとは違い神妙にしている。娘がいつ感情を爆発させるのかと神経を張っている。
「所属している限りは私どもが責任を持ってお預かりしますし、礼儀や社会の厳しさも教えていきます」
社長は続けた。
「昨今の芸能界は親御さんが考えておられるような危ない世界ではありません。会社の机で伝票を整理する人がいるように、工場で部品を作る人がいるように、店で洋服を売る人がいるように、演じたり歌ったり、喋ったりすることはひとつの職業です」
「あ、あの! たとえばどんな人が所属してるんですか?」
姉が空気を変えるような跳ねた口調を社長に向けた。私のせいで張り詰める空気を姉は使命感を持っていつも中和しようと頑張る。
「女優の神流美月やマルチタレントのりょうがいます」
「すごい!」
ね、お父さん、お母さん、神流美月とりょうだって。知ってるでしょ。すごいね!
姉の興奮がやおら両親にも移った。ふたりが好んで見ている大河ドラマには神流美月が、旅番組にはりょうが出ている。
「才能は人それぞれです。亜美さんがどの方面に活路を見い出すのか、それはまだ分かりません。ただひとつ言えるのは、亜美さんには表現者としての素質があります」
社長はちら、と私に視線を向けた。
「うちの事務所ではオーディションでの新人発掘はしておりません。私が自分の足と目を使って選んでいます」
「まあ、そうなんですか、社長さん自ら……」
母がやや関心を示した。
「紹介も自薦も基本的にお断りしています。ひとめ見た瞬間に私が何かを感じるか、そのひらめきこそがすべてだと自負しています」
父、母、姉が顔を見合わせる。戸惑いつつも一家の問題児が他人、しかも芸能事務所の社長から認められたことに悪い気はしないようだった。
+
そういえばなんで嘘をついたんだ、と随分経ってから社長に聞かれた。午後一番のダンスレッスンを前に、同フロアにあるソファに座りコンビニのおにぎりを食べはじめたときだ。通りかかった社長がやおら隣に腰をおろした。
「高校生じゃ不利だと思ったか?」
慣れているのかどうでもいいのか嘘自体は不問のようで、興味はその真意らしい。
「別に」
私はわざと素っ気なく答えた。
「だってあんたが間違えたから」
スカウトに飛びついたと思われたくなかった。瞬間、社長の目つきが鋭くなった。
「あんたってのは誰のことだ?」
空気が途端にぴりりとする。
「……」
「大人の社会でやっていくつもりならきちんと他人を敬え。心の中でなにを思うも勝手だ。だがいいか、本人の前ではそんなことは微塵も出すな」
「なんで」
「なんで? おまえはいったいここへ何をしに来たんだ」
何をしに、って……
口ごもった。芸能人になるため、に決まっているが、そう答えれば「じゃあなぜ芸能人になりたいんだ」と切り返される。その答えを私はまだ持っていない。
「どうなんだ」
社長の目は厳しいままだ。
「田舎へ帰りたいなら止めないぞ」
社長は常に私の言動にいちいち反応する。そのたびに私は、重い口を開いて自分の気持ちをわざわざ言葉に置き変えなければならない。実際、面倒くさくてかなわない。
「不安か?」
観念した。
「不安は、ない」
「……」
細めた目が、私の答えに満足していないのは明らかだった。でもその先の言葉が出てこない。
袋の中のウーロン茶を拾い上げて渡される。
受け取ってキャップを回した。
「おまえが進もうとしている世界は他人から認められなければ光が当たることはない世界だ。トラップも満載。納得がいかないことや悔しいことは山ほど落ちてくる。そう、上からな。ごつごつとした固いものもあれば気味の悪い液体もあるだろう。だが落下物を喰らってもすぐに立ち上がれ。何事もなかったように振る舞え。その先にあるスタートラインに立つためにな」
「……」
今、自分はスタートすらしていない、その現実が迫ってくる。
「表情筋のレッスンは毎日やってんだろうな。毎日暇なんだから出来るだろ」
「暇って」
「暇だろう?」
「なら仕事ちょうだいよ」
「おまえに回せる仕事? そんなもんどこに転がってるんだ? 甘いなあ昌ちゃんよ」
「ああもうウザイ」
吐き捨てた。今度は社長も突っかかってこなかった。俯く私が、自分自身への苛立ちを持て余していることもお見通しなのだ。
「俺だって『ウザイ』。ああ、ウザイウザイ」
私の口真似をしてからおもむろに立ち上がり去っていく。
収束はいつも唐突にやってくる。所属のタレントは他にもたくさんいる。私にばかり構っていられないのが現状なのだろう。
社長の背中を見送りながら心細さを覚える。毎回だ。
社長は確かにうっとおしい。うっとおしいけれど、見捨てられたくはなかった。
【プロローグおわり~第一章へ続きます】
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