Ⅳ テンション・リダクション

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「お、お先に失礼します。おつかれさまでした」 「おつかれさまでした」  スーツを着ている自分と見慣れた街並みの対比……1年前は両者が馴染んでいない感覚に支配されていたけれど、今は「会社帰りのサラリーマン」なんて気分に浸れるようになった。 「……う~ん」  9月に入り、朝晩はだいぶ涼しくなってきた気がする。僕の大好きな「秋」という季節の足音が、少しずつ聞こえてきそうだった。僕を取り巻く環境が変わっても、僕のなかにある思いが変わっても、やっぱり秋は好き。それは今も昔も変わらないし、この先も揺らぐことはないだろう。秋のどこか煙っぽい匂いが好きだし、風の音や虫たちが奏でるハーモニーが好きだ。ほかにも理由があったような気がするけれど、今はシンプルにそれだけで充分。それ以上言葉にしたくないだけかもしれないけれど、言葉に尽くせないほど魅力的な季節であることに変わりはない。だから言ふべきにあらず……うん、言ふべきに“も”あらず。 「星越先生」 「……はっ」  塾の外で「先生」と呼ばれると、やっぱり変な声が出てしまう。ただ、呼びかけている相手が誰なのかは分かっていた。 「おつかれさまで~す」 「小野寺先生、おつかれさまです」  お互いに「先生」なんて呼んでいるけれど、ともに大学2年生。学部は違うけれど、小野寺さんも同じ大学に通っている。バイト終わりにたまたま近くのコンビニで遭遇して以来、一緒に帰ることも多くなった。シフトが重なる水曜日はおなじみのパターンになりつつある。 (……女の人とうまく話せるわけがない)  はじめはそう思っていたけれど、会話を重ねていくうちに、問題なく話せていることに気づく。いざその状況になれば、何とかなるのかもしれない。 「担当している子の成績が伸びなくて」 「……そっか」 「教え方が悪いのかなって」  はじめは敬語からスタートする会話が、塾から離れるにつれて、友達同士のような口調へと変わっていく過程が面白い。小野寺さんは色んな悩みを話してくれる。それに対して具体的なアドバイスとかはできないけれど、話を聞くことが好きだし、頼られることも好き。相手の気持ちが少しでも楽になればいいなと思いながら、じっくりと耳を傾ける。 「星越くんは何かあった?」 「……う~ん」  そして、たまには自分のことも話す……というより、小野寺さんが引き出してくれる。お互いに色んな思いを共有しながら、今日の反省会をするような感じ。社会人になれば、もっともっと悩みは尽きないんだと思うけれど、大学生なりにたくさん悩んでおけば、少しだけ耐性がつくだろうか。バイト……いや、非常勤であれ正社員であれ、生徒にとって「先生」であることは変わりない。 「みなさんは、アルバイトではなく非常勤講師です」  初期研修で言われたことに、「責任」という言葉が重くのしかかってきた。悩む=責任を果たすことではないかもしれないけれど、藻掻(もが)くことも非常勤としてきっと大切なんだと思う。だから、こうした反省会の時間を有意義なものと捉えていた。 「何で古文を勉強しなきゃならないんですか? って生徒に聞かれて」 「へぇ~」 「真剣な顔で『今を生きてるんですよ』って」 「ふふっ」  小野寺さんの小さな笑い声が、微かな秋の夜空へ吸い込まれていく。よく考えればそうなのかもしれないけれど、僕が中学生の時はそんな発想になることなんてなかった。古文は受験に必要だから、勉強して当たり前だと思っていた。「受験に必要だから」と言いかけそうになったものの、果たしてそれでいいのだろうか。いざ生徒から疑問を投げかけられた時に、そういう理由だけで終わらせていいのか迷ってしまった自分がいる。納得してもらえるような答え、もっと大切な答え……色々と探してみたものの、その場では見つけることができなかった。やっぱり「受験に必要だから」という理由なのだろうか。 「星越くんは何て答えたの?」 「……いや、受験に必要だからって言おうとしたけど」 「うん」 「……何か違うかなって」 「そっか」 「それで、うまく答えられないって話して」  相手を困らせるような話はしない、自分のことで相手を巻き込まない……そう思っていたのに、結果的にはそういう展開になってしまった。話した後の沈黙に、後悔の念が(にじ)んでいく。 「……私も受験に必要だからって思うかな」 「……うん、そうだよね」  思ったよりも長い沈黙……たぶん、小野寺さんは色んなことを考えてくれたと思う。それはすごく申し訳ないけれど、僕と同じ考えに行き着いたことがせめてもの救いだろうか。 「あのさ、星越くん」 「……は、はい」  ホッとしたのも束の間だった。何となくだけど、小野寺さんを取り巻く空気がガラッと変わったような気がして、思わず敬語になってしまう。秋へ向かう空気が、キュッと引き締まるような感覚に支配されていく。 「…………」 「…………」 「ごめん、その……やっぱ、何でもない」  小野寺さんは何を話したかったのだろう。考えを巡らせてみるけれど、今ある情報からは読み取ることができなかった。色んな可能性を考えてみるけれど、やっぱり分からない。僕が(にぶ)いだけなのだろうか。 「じゃあまた」 「……う、うん」  気づけば、いつもの交差点に辿(たど)り着いていた。ここへ来ると反省会が終わり、それぞれがそれぞれの家の方向へ帰っていく。やっぱり話すべきではなかっただろうか。何か言ってはいけないことを言ってしまったかもしれないとか、態度に問題があったかもしれないとか……少し重い足取りを抱えながら、一人での反省会が始まっていた。やっぱり、人の心を読むのは難しい。
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