Ⅶ ジョハリの窓

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「いらっしゃいませ」 「すみません、じゅ……月瀬純也の友達なんですけど」 「あっ、こちらにどうぞ」  「純也の友達」という合言葉……琉河は、店員さんにそう伝えれば大丈夫と言っていた。まるで、ここの常連さんのような感じだったから、何となく温度差を感じていたかもしれない。それでも「自分だって常連なんだ」というくらいの意気込みを持って飛び込んだ。スーツの力を借りて、行きつけのお店にやってきたサラリーマンのように。  と言いつつ、到着してもしばらく外をウロウロしていたことは秘密。「入り口まで迎えに来てほしい」なんて本音は言えず、たまに腕時計に目を移したり、スマホを開いたり……まるで待ち合わせをしているかのような空気を出して、お店の前を行ったり来たりしていた。何も始まらないのは分かっているけれど、心の準備に必要な時間だと言い聞かせながら、焦らず、ゆっくりゆっくり。 (……来ないなぁ)  誰かを待っているわけではないけれど、無観客の舞台で最後まで演技を貫いた。待っても来る気配がないから、先に入っているという感じ……それを醸し出して、やっと店内に入ることができた。 「足元、お気をつけください」 「……は、はい」   居酒屋というよりは、バーのような雰囲気。と言っても、バーなんて場所に行ったことはないから、あくまでテレビで見たイメージに過ぎない。塾の懇親会で行ったような居酒屋とは違って、店内が暗かったし、あまりオープンな感じではなかった。迷路のような、洞窟のような空間が広がっているとでも言えばいいだろうか。 「遥斗、こっちこっち」  奥に足を踏み入れると、その終点と思われるカウンター席から、聞き慣れた声が僕を呼びかける。声は琉河っぽいけれど……あれは、琉河で間違いないだろうか。眼鏡の丁番あたりを両手でそっと掴みつつ、少し目を細めながら近づいていく。 「うわっ、スーツじゃん」 「……うん、バイト終わり」 「しかも眼鏡」 「……うん」 「何か垢抜けたな~、遥斗」  やっぱり琉河で間違いなかったけれど……あの素朴な感じはどこへ行ったのだろうか。都会ってやっぱりすごいところなのかもしれない。教育実習が終わって間もないようだから、もちろん髪を染めているわけではないけれど、髪型や服装が変わったから別人のように見えるのだろうか。うまく表現できないけれど、「素朴」の対義語を使うならば「洗練」された感じ。いや、洗練されたという言葉は「垢抜ける」と同じような意味になってしまうから、琉河の言葉をそっくりそのまま返せばいいのかもしれない。  数年でこんなに変わるのかと驚いてしまったけれど、琉河の目に映る僕も少しは変わったということだろうか。僕と同じように驚いているということだろうか。そして、琉河の目に純くんはどう映っているのだろうか。自分自身はもちろん、近くにいる人の変化って気づけるようで気づけないし、同じ時間や場所を共有していると、何も変わっていないように見えてしまう。ただ、遠く離れている人と久しぶりに顔を合わせれば、仮に大きく変わっていなかったとしても、本人に自覚がなかったとしても、変わったように見えてしまうのかもしれない。 「いらっしゃいませ」  琉河の隣に座り、店員さんからおしぼりを受け取る。変な間が空かないよう、すかさず手元にあるメニューに目を落とした。 (…………う~ん)  何となく「とりあえずビール」なんて言うような雰囲気じゃない気がするし、そもそもビールは苦手。「あちらのお客様からです」なんてシチュエーションを想像したくなるカウンターだから、やっぱりここはカクテル……ジントニックあたりが無難だろうか。 「いつか、ビールが美味しいって思う時が来るんですよ~」  僕が行っている美容院の人が、そう言っていたことをふと思い出す。特に疲れている時は美味しく感じるなんて言っていただろうか。塾の懇親会では、周りに合わせてビールを頼んでいたけれど、正直その美味しさに気づくことはできていない。まだまだ疲労が足りていない……なんて考えると、何となく社会人というものが怖くなってしまった。 「……ハ、ハイボールで」 「かしこまりました」  琉河がハイボールを飲んでいると聞いて、無難に同じものを選択する。一つだけ気になったものがあったけれど、それを思いのままに注文する勇気はなかった。
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