Ⅶ ジョハリの窓

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「うわっ、カルパッチョうまっ」 「うん」  真鯛の美味しさに気づいたのは中学3年生の時。僕の誕生日祝いと高校の合格祝いを兼ねて、家族3人で回らないお寿司屋さんに行った時だった。白身魚=淡白な味というイメージがあったけれど、そこで真鯛を食べたことで印象がガラッと変わったと思う。「桜鯛」と呼ばれるように、春は真鯛が旬を迎える季節の一つ。その時期に食べたことも大きかったと思うけれど、淡白とは真逆にさえ感じる味だった。あの日から真鯛はもちろん、白身魚に対する見方が変わったと言っていいかもしれない。小さい頃から大好きだったサーモンも白身魚だと知って、さらにイメージは変わったと思う。 「上に乗ってるやつって何」 「……ど、どれ?」 「この、ちっこいクローバーみたいなやつ」  食べ物に限らず、例えば「人」に対するイメージも常に変わっていくものなのかもしれない。かつての僕は、自分に合うかどうかを第一印象だけで判断できると思っていた。第一印象が覆されるケースが少ないから、そう思い込んでしまっていた。ただ、人と深い関わりを持たなければ「第一印象が覆る」という段階まで到達できないことに気づかされていく。「覆されるケースが少ない」という判断も含めて、目や耳に入る表面的な情報を感覚的に処理しているだけだから、当たり前と言えば当たり前だろうか。 「……ちょっと辛いから、カイワレかな」 「カイワレ?」 「……うん、大根の新芽」 「俺、食ったことあっかなぁ」  第二印象、第三印象……と段階を踏んでいくと、その積み重ねによってイメージはある程度固まっていくのかもしれない。ただ、どんなに長い時間をかけても、どんなに深い関係になったとしても、新たな一面に気づかされたり、それによってイメージが変わったりすることって絶えず訪れるような気がする。 「たしかにちょっと辛い」 「……うん」  僕が知っている自分自身のこと、周りが知っている僕のこと……両者の認識はどれほど一致しているのだろうか。「ジョハリの窓」という心理学の自己分析モデルを知ってからは、どうしてもそうした視点で考えてしまう。  ジョハリの窓は「開放」「秘密」「盲点」「未知」という4つの窓に分類することで、自己に対する理解や周りとの関わりに対する理解を深めていくことができるものだ。僕は知っているけれど、周りが気づいていない「秘密の窓」。周りは知っているけれど、僕が気づいていない「盲点の窓」。それらの窓を開いた先にある、僕も周りも知らない「未知の窓」。この3つの窓を開放することによって、自分も周りも知っている「開放の窓」が大きくなっていくようなイメージ。  一緒にいる時間が長くなればなるほど、関わりが深くなればなるほど、両者が共有できている僕のイメージ=「開放の窓」は大きくなっていくのかもしれない。ただ、いつでもどこでも誰に対しても「開放の窓」大きくすればいいわけではなく、そのバランスや加減が大事なんじゃないかと個人的には思っている。 「パスタもうまいから食ってみて」 「うん」  純くんや琉河や奏冬はもちろん、人との関わりのなかで見えてきた「自分」がたくさんある。周りの人に引き出してもらった「自分じゃないような自分」がいる。もともと閉ざされていた窓が、人との関わりによって開放されていった部分って大きいのかもしれない。  ただ、人との関わりのなかで、やっぱり開放できない、開放したくない窓があることにも気づかされる。意識するようになって、改めて鍵やカーテンをガチっと閉めるような窓もあるだろうか。「見たくない」「知りたくない」という理由で、あるはずの窓に目を向けていない部分もあるかもしれない。ほかにも、全ての人にはオープンしない半開きの窓だったり、開けるかどうか迷っている窓だったり……ジョハリの窓は4つの領域で考えているけれど、僕の場合はもっとたくさんの窓があるような気がする。 「ところでさ、純也と何かあった?」 「……へっ」  食べ物の話をしていたはずなのに……突然、窓の前に立たれたような感じ。心の奥底に入り込まれるような感じがして、思わず変な声が出てしまう。 「……な、なんで?」 「いや、何となく」  明確な理由がないならいいけれど、今日の琉河からは「何となく」じゃない雰囲気を感じる。何となくそんな気がする。
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