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あの時、私の右手は彼の下顎をしっかりと捉えて弾き飛ばした。彼の体が大きくよろめくなんて思ってもなかったし、まさか見下ろすことになるなんて思ってなかった。
じんじんと拍動する掌にずきずきと痛みを伝えてくる手首。こんなことするの、初めてで正直興奮した。けれど、すがるような目の彼を見て、気持ちは風のない湖みたいに静かになった。
怒りだってなんだって、相手に興味がないと何も感じないんだなって思った。
全部準備してた。後戻りしないつもりで。予定通りに動けばいい、そういうふうに。
実際動いてみれば、何のことはない。レールの上の電車のように、定期運行だ。順調すぎて怖いくらい。
あんまりに順調なもので、最後は嫌味っぽく笑って「さようなら」と言うつもりだったのにできなかった。だって、あの一発ですべて終わってしまった気がしたから。
彼は私のこの車で、浮き出るような口紅のナイスバディとアバンチュールを楽しんでいた。その資金?二人の貯金。ああ、ときどきお家デートもしてたわね。私たちのあの部屋で。
おかげで証拠集めには苦労しなかったわ。
「一回くらい許してくれてもいいだろ、もうしないから」
そうじゃないの。ごめんなさいなんていらないの。誓いも約束もいらないわ。
この車で彼女のピアスを見つけたあの日、あなたは「いらない人」になってしまったの。
この気持ちばっかりはどうしても消せないの。好きでもない人と暮らせないの。だって、他人なんだから。
これが私のサヨナラの理由。
「私の人生にあなたはいらないのよ。さよなら」
つぶやく私を赤い軽は小気味いいエンジン音で運んでいく。
少しずつ、景色を変えながら。
ーadieuー
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